否認

視野狭窄的になり、ホロニカル・アプローチABCモデルでいうA点ばかりに執着し、悪循環ばかり繰り返してしまうときがあります。本人も悪循環とわかっていながら抜け出せなくなってしまうのです。こうしたとき、他人からすれば、嫌なことばかりに自らドツボにはまりにいっているように見えます。しかし、当の本人は、まったくその逆で苦悩ばかりの今の人生から一刻も早く抜けだそうとして、理想の世界への変身を強く願っている場合がほとんどです。しかしながら残念なことに、そうした理想への希求は、ともすると達成不可能な非現実的で幻想的な理想を夢想していることが多く、結果的には、いくら必死に努力しても幻想的目標には届かず絶望的になっています。

そのため傍からすれば、その人自身が嫌な出来事ばかりに、自ら執拗にこだわり続けていること自体が問題のように見えてきます。そこで、「いつまでそんなことばかりいっているの。そんなこと早く忘れてもっと○○しなさい」といいたくなってきます。しかし、そんなニュアンスのことを言おうものならば、すぐに「じゃあ、私がいけないということなのね」と一層、事態を悪化させるばかりです。

また「すべての苦悩は、あなたのそうした考え方が合理的でないからだ」と指摘し、執着している人の思考の枠組みを変えようともくろむ人もでてきます。また自分の非を認めず、他罰的に憤怒するばかりの態度に病理を感じて精神科への受診を勧める人もいます。

しかしこうした周囲の態度は、当の本人にとっては、全部、「あなたが悪い」といわれている気になって、より事態の悪化を招くのが現実です。

では一体、何が大切なのでしょうか。

実は、こうしたA点固着の背景には、絶望的苦悩を認めることに伴う恐怖が隠れています。 自分の意思ではなんともならぬ奈落の底の魑魅魍魎の世界に私が呑み込まれるような恐怖があるからこそ、恐怖から必死に逃れようとしてすぐには達成見込みのないことを夢想し、夢想したようにならないとあがくことが執着を形成してしまっているのです。ホロニカル論的には観察主体が、魑魅魍魎の奈落の底への落ちていく恐怖心から必死に逃れようとしてもがいても、今のやり方では視野狭窄的になりすぎてしまっている状態といえます。そこで悪事循環ループから抜け出すためは、実はドツボにはまっている自己自身を少し一定の距離をもって俯瞰し、あるがままに受け止めることが大切になります。ABCモデルのC点の確立です。A点固着状態を、C点からあるがままに観ずることが出来るとき、C点からA点以外の世界が自ずと見えてきます。それがA点脱出を可能とします。A点から脱出しようと現実主体がもがくのではなく、現実主体がA点に呑み込まれてしまっているのを観ずることがとても大切なのです。

こうした執着に対して、自らが妄分別によってつくりだしているという説法が仏教関係からされることがあります。しかしこの説法は、悟り、涅槃や宗教的体験を自ら希求している人に対しては、とても自力を超えた仏性の働きに身を任せることの大切さを説く上で有効な言い回しではあって、そうでない人によっては「すべてはおまえの創り出している妄念」だと、あたかも自分のせいだと言われているように聞こえてしまいます。我の強い人や、意地っ張りの人には、より我や意地を強化してしまうことすらあります。

大切なことは、苦悩を創り出しているのは、あなたのせいでも、○○のせいでもなく、すべての悪循環パターンからくるものではないかということを共にすることが大切になるといえるのです。苦悩を創り出しているものは、単純な要因に帰すことができず、すべてが絡み合っての出来事であるという理(ホロニカル主体)の観点を得ることで、そうした複雑な現象をあるがままに何も予断や期待もせず、ただあるがままに現実を観照することが大切になるのです。因果論パラダイムに替わる新しいパラダイムがないところで、ただすべては妄念と言われて、そのように思えない自分がいけないんだと自己卑下的になるだけといえるのです。