現象学とホロニカル心理学

信念対立は、本来、言詮不及な自己及び世界の出来事について語るときに避けることのできない言語化による概念の微妙な差異から生じます。そこで、できるだけ、こうした対立を越えるためには、「いま・ここ」という場における非言語的な身体感覚を伴う共時的共通体験を、お互いに自己照合の手がかりとしつつ、共通体験の表現に伴う微妙な差異の相互理解を促進することのできる場作りが大切となります。

このとき、東洋的な「無」「空」の思想が有用です

「無」「空」という「意識と存在のゼロ・ポイント」(井筒,1993)においては、すべては一ですが、そこに何らかの認識や識別作用が働いた途端、一は即多となります。しかしもし一即多であることを相互理解することができるならば、差異をお互い楽しみながら相互理解を深めていくことが可能となります。

あらゆる判断を一旦エポケーして、事物をありのままの純粋経験として受け取ろうとする現象学が、もっとも東洋の「無」「空」の思想に接近しています。しかしそれでもなお現象学は、意識中心主義の認識の限界を超えられず、絶対無の場の観点がないと言えます。あるがままに事物を受けとるというとき、観察主体が無となって観察対象そのものとなろうとすることと、観察主体が、ただあるがままに事物を偏見なく観察することとの間には違いがあるわけです。

<参考文献>
井筒俊彦(1993)(意識の形而上学「大乗起信論」の哲学(2001).中央公論新社.