言語による共約不可能性

ホロニカル主体(理)は、事象・事物を区分・分節をする際の仕分けの基準に相当します。この仕分けルールの記号的体系が、ある言語を共通基盤とする文化といえます。

ひとつの文化は、思考、行動、感情を通して、深層レベルから意識の表層レベルに至る重々無尽の網目状の世界を創り出しながら、人の言動に大きな影響を与えています。表層レベルでの変容は深層レベルに至る心的構造の変容に影響し、逆に、深層レベルでの変容は表層レベルに至る心的構造の変容に影響します。

ひとつの文化が根強く深層レベルまで影響しているとき、もし強烈な異文化と接触すると、地殻変動にも似た心的構造を揺さぶる出来事となり、場合によっては外的・内的世界の心的危機や混乱を引き起こします。

科学技術の進歩は、普遍性の論理や法則のもとで高度情報化社会と経済活動のグローバル化をもたらしました。しかし、そうしたグローバルリズムは、世界中に一様性や画一的統一性への同調や同一化を求めます。しかもこうした均一性、画一性は、迅速な大量消費社会による経済至上主義をもたらしてきました。しかし、こうした傾向は、意識の表層レベルでの変化として受け入れられながらも、深層レベルでは根強い抵抗を抱く人たちを生み出してきました。そうした人たちは、これまでのかけがえなき独自文化の破壊に内的激昂性を抱えています。実際、価値の一様性と多様性の強要に対しては、激しい民族主義的抵抗が起きています。しかも対立は、異なる民族間の紛争という局所的に限定されたものだけではありません。地球規模での情報が瞬時に飛び交い、常時、政治・経済・社会が密接な緊張にさらされる現代社会にあっては、もはや地球上の至るところで、普遍性と多様性をめぐる対立による危機が起きています。

科学主義的普遍主義の文化的枠組みを既知のホロニカル主体(理)として内在化する外我優位な生き方は、自己と世界の出会いの直接体験レベルでの生き生きとした実存的感覚を疎外します。そして、こうした疎外は、合理主義や普遍性を謳歌する理性や知性への不信による感性レベルでの突然の憤怒を引き起こし始めているように思われます。本来、外我の理性や知性は、内我の感情や感性を理解するためにあると思われますが、外我の理性や知性が、内我の感情や感性を制御しコントロールできると思い込んできたことの弊害が、そこら中に溢れ出してきたように思われます。

今後、課題となるのは、異なる言語体系による対話をいかにすれば開かれた対話にすることができるかという点にあります。少なくとも、そうした対話には、お互いの理解の限界に伴う不確実性に対する寛容性が必要になります。お互いが相手に一様性を強要しないというルールです。そのためには、結論をひとつにまとめきらないというルールの共有も必要になります。表層レベルは同意と協調が可能なことでも、深層的になればなるほど共訳不可能性があることへの相互尊重が必要になると思われるのです。