空気を読む

場の空気を読む力が生まれながらにして苦手な人がいますが、そうした人を含んで、本来、場の空気を読む力というものは後天的に育まれてくるものと考えられます。特に価値の多様化・多元化が加速度的に進む現代社会にあっては、生活の質と量が変化に乏しい場に育った人は、新しい場への参入に際して、その場の言動の奥にある言質を了解することに相当の困難を伴います。しかし、こうした人にあっても、しっかりとサポートする人と時間を保障され、その場に生き延びようとする限り、場の空気を読めるようになってきます。

ところが、昨今、すぐには新しい場の空気を読むのに苦労する人たちに対して、自分が所属する場との異質化や場からの排除化の意味合いを込めて「発達障害ではないか」と嘲弄する人が多くなってきています。こうした否定的言動の背景には、精神医学的な専門知の社会への浸透が、むしろ社会的スティグマの助長に寄与するという精神医学的診断のもつ影の問題があります。しかしながら、「対人的相互反応における非言語的コミュニケーションの欠陥」が指標の一つとなる自閉スペクトラム障害にあっても、人と人との関係性の問題がテーマであり、障害は、人と人、人と社会との関係性を抜きにして語ることはできません。関係性の障害の問題にも関わらず、障害の要因があたかも個人の病理だけに帰結しているかのように誤解される診断基準自体にスティグマを産み出す背景があるといえます。実際、重篤なコミュニケーション障害を抱える自閉スペクトラム障害をもつ人であっても、周囲の理解と創意工夫があれば、適切なコミュニケーション関係を構築することができます。こうしたことは、日常生活で障害児・者との親密な信頼関係を持てるようになった人ならば誰でも実感している感覚です。信頼できる関係性の中では、お互い相手のいわんとしているところを自ずと了解しあった関係が成立するのです。空気は一人で読むものでなく、関係性の中で育まれるものとして捉え直すべきです。

ある場所に長く所属する人たちは、いい意味でも悪い意味でも、生き延びるためにある場所の空気に慣れ、その場所に生きる人たちとの言動と言質の了解度を深めていきます。しかし、価値の多様化・多元化の浸透の中では、たとえ同じ場所に所属する人同士であっても、果たしてどこまで、それぞれの心底に共通感覚を共有しているか怪しくなってきているのが現実です。その結果、場の空気や相手の気持ちを、むしろ十二分に了解していないという感覚でコミュニケーションに心がけることが大切になってきています。安易に一致を求めるのではなく、不一致を尊重しあいながら、不確実性に耐えつつ対話を通じて相互理解を深めるという姿勢が大切になってきていると思われます。

空気を読むことが、ますます難しくなってきたと理解することが大切になってきているのです。この観点からすると、場に慣れない人を揶揄する人の方が、その人や場の空気を読めていない人になります。しかし、たとえそうであっても、空気を読むのが苦手な人の空気を読むことを根気よく続けていると、いずれ異文化交流にも似た相互理解によって、お互いの空気を読める人になると考えられるのです。