真の自己(8):観察主体と観察対象の合一

自己にとって観察対象が幾つもある限り、自己の“こころ”には、万物が重々無尽に区別される現象世界となって立ち顕れてきます。しかしながら自己にとって、観察主体と観察対象が合一となり、観察主体=観察主体となれば、観察主体にとっては、もはや世界には識別されたり区分される対象など一切なく、自己の“こころ”は、あるがままになります。あるがままの“こころ”は全一です。全一の“こころ”にとっては、重々無尽に区別されていた現象世界が、識別・区分など一切なく、そのままあるがままのひとつの実在世界になります。この境位においては、現象世界には、それだけで独立自存している本質をもったものなど一切なく、すべてがホロニカル関係(縁起的包摂関係)にある全一の世界になります。

自己にとって、究極的な自己と世界との一致とは、すべてが絶対無(空)そのものになることです。すなわち自己にとっての身体的自己の死は、絶対有の世界を創り出している絶対無(空)の場そのものになることです。真の自己の覚醒とは、自己が絶対無(空)の場でもあることへの覚醒といえるのです。

自己も世界も、自己にとっては、絶対無(空)の場(“こころ”)から立ち顕れる重々無尽の世界といえます。絶対無(空)の場(“こころ”)として統一している働きが、ホロニカル心理学でいう「IT(それ)」です。自己と世界は、絶対無(空)の顕現といえるのです。

私たち自己は、自己が身体的自己として命の営みを繰り返している限り、永遠の絶対無(空)の場が瞬間・瞬間、重々無尽となっての自己の前に立ち顕れてきているといえるのです。