“こころ”とは(27):生物・心理・社会モデルへの疑問

笹川流れ

最近、精神医学や臨床心理学において、多元モデルのひとつとして、「生物・心理・社会モデル」とよく言われるようになりました。しかしながらこうした言説には留意する必要があります。それはこうした分類自体が、「心」とは、「生物」や「社会」とはカテゴリーが異なるものであるという暗黙の前提が常識化されてしまっているということです。“こころ”とは何かと、語る時に、生物、社会とは、異なるものであるという前提で言及するのか、区別の難しい現象として捉えるのかで、まったく“こころ”の捉え方は異なるという事実が検討されていません。ましてや、“こころ”を生物、社会を超えた「魂」として捉える人もいるのですから、現実的には“こころ”の捉え方自体が、様々であるというが現実です。大切なことは、こうしたやっかいな問題を失念したまま、それがいかにも正当であるかのように扱うことの限界や危険性を、十二分に熟知しておくことです。また「生物・心理・社会モデルを折衷主義や多元主義の立場で対応するとなると、すべての次元にも対応をしなければいけないという混乱や、すべてに対応することは無理という相対主義に陥ることを避けられなくなります。

伝統的な日本における“こころ”のとらえ方は、「天界」から「身の内」に至るまで、「気」のようなものとして触覚的直感的に捉えていました。草木国土に至る森羅万象に“こころ”の働きを感じ取ってきたわけです。身心一如的で、自己と非自己間を融通無礙に流れる働きに、“こころ”を体感してきたわけです。しかし明治以降、個人の精神的活動を「心」の作用とみる西洋的な“こころ”のとらえ方の影響もあって、心と身体、精神と物質は、二分化されてきました。しかし現代日本では、二元論的捉え方の反省もあって、「生物・心理・社会モデル」と多元論的視点に変化してきたという流れがあります。しかし、「生物・心理・社会モデル」は、明らかに心身二元論的捉え方のパラダイムの潮流内にあるといえます。

ホロニカル心理学では、“こころ”とは、すべての森羅万象や現象の究極的源である「絶対無」「意識と存在のゼロポイント」「空」から立ち顕われる生成消滅の現象のことにほかならないと捉えます。したがって、「生物」「心理」「社会」という識別される「心理」の概念を包摂しつつ、「心理」の概念をもっと超えた働きという捉え方になります。

「怒り」など、「ある感情」を一つ取り上げたところで、ある感情には、生物学的反応や社会的影響など多層多次元にわたる現象が絡み合っていると、ホロニカル心理学では考えます。「ある感情」を独立変数として取り上げることはできないという立場です。しかも、「ある感情」を取り上げる人が、それぞれ何の要因から引き起こされたと捉え、何に観察対象を焦点化するのか(生物学的次元?、または社会的次元?など)の差異は、その行為自体が、“こころ”の現象の他の層や次元にも影響を与えると考えます。“こころ”は、要素還元主義的な近代科学のパラダイムではなく、複雑系の現象を扱うパラダイムでもって捉え直すことが大切と考えているのです。究極的には、物理現象非物質的現象(意識現象を含む)との関係が、本来一の現象が、あたかも二や多の現象のように見えているという統合的理解を可能とするパラダイムが構築されるのでないかと予測しています。

<参考>
https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1120020171.pdf