極悪について

善の欠如が悪なのか、それとも善悪共にあるとするのかは、倫理の根源の捉え方にも深く関わるテーマです。

ホロニカル・アプローチの実践の立場からすると、悪を善の欠如とする人の多くは、自分を善とするときは、悪をすべて他人や社会など自己外に投影して極悪人とするか、さもなくば自分が善の欠如した極悪人という原罪意識が強くなります。

それに対して、すべてには善も悪もあり、善は悪にいつでも転じるし、悪もまたいつでも善に転じると感じている人は、すべての悲哀を慈悲のこころで包もうとしてもそう簡単には出来ないことに苦悩するか、すべてを曖昧にしたまま責任の所在すらわかなくさせる人になりがちです。

善も悪も自己の内もあるという倫理を持ちながらも、すべてを自己超越的な働きのもとで統合を目指すことのできる人は、そうそういるものではありません。

誰にとっても対応が難しいのは、自己の内にも外にもある悪への対処です。悪は、自力ではなかなか克服をすることもできなけば、その理不尽さを受け入れることを認めることが難しいのです。

しかしながら、いかに理不尽で受け入れることも避けることのできない悪があろうと、善も間違いなく存在することも事実です。

こうした光と闇の二重性を受け入れながら倫理を追究するとき、悪を消し去ることではなく、悪の存在を認め、悪に学び、今・ここを悪に圧倒されることなく、今・ここにおいて、ただひたすら善の光に向かって未来を開くことが大切になるように思われます。

悪の欠如した善も、善の欠如した悪も、極悪に転じると思われるのです。闇の欠如した光の世界も、光の欠如する闇の世界もありえることのない虚無の世界に転じると思われるのです。