
AI自身がAIを賢くさせることのできる生成AIと密接に結びついたAGI(Artificial General Intelligence:汎用人工知能)やASI(Artificial Super Intelligence:人工超知能)は、近い将来、人類の知的能力を大きく超える技術的段階をもたらす可能性があるとYouTube等で論じられています。しかも、こうした超知能時代が、人類に新たな幸福と創造性をもたらすのか、それとも制御不能な破滅的リスクを招くのか、現在、世界的にも見解が大きく分かれているようです。
この問題をホロニカル心理学の立場から検討すると、AGI・ASIは、単なる技術的進歩としてではなく、人間の“こころ”の構造、とりわけ「外我」の極度な拡張として理解することができます。
ホロニカル心理学において、外我とは、言語化・分析・判断・制御・計算・予測といった働きを担う側面です。したがって超知能とは、「外我の優位化」現象といえます。外我が優位化した社会は、物事の判断基準において、数値化、効率化、制御・予測可能性、最適化、客観化、操作可能性に価値を置くことになります。
これに対して、内我とは、非言語的・直観的・身体感覚的であり、自己と世界との出あいの不一致・一致の直接的な出あいに根ざした働きです。内我の重視は、直接体験、身体感覚、関係性、他者性、非言語的理解に価値を置くことになります。
超知能とは、ホロニカル心理学的に見れば、主として外我の機能が飛躍的に高度化したものと考えることができます。
しかし、ここで重要なのは、外我の高度化が、そのまま“こころ”の適切な変容を意味するわけではないという点です。知能が高まることと、自己と世界との関係が深まることは同一ではありません。むしろ、内我との対話を欠いた外我の肥大化は、自己と世界を対象化し、操作し、制御可能なものとしてのみ捉える危険性を強めます。
このとき、超知能は、人類の可能性を拡張する道具ではなく、自己と世界との関係を切断する巨大な制御装置へと変質するおそれがあります。とりわけ、外我が「世界を完全に予測し、管理し、操作できる」という制御幻想に陥るならば、人間は身体感覚、直観、倫理的感受性、他者との相互包摂的関係を見失っていきます。その意味で、内我を欠いた超知能は、核兵器とは異なる次元で、人類の存在様式そのものを脅かす危険をもつと考えられます。
一方で、超知能が必ずしも破滅をもたらすわけではありません。もし超知能が、外我の肥大化を促進するだけでなく、内我との対話、身体感覚への気づき、自己と世界の不一致・一致の直接体験を支える方向で用いられるならば、それは人類にとって大きな意味をもつ技術となり得ます。
ホロニカル心理学では、自己と世界は固定的に分離した実体ではなく、そのつどの出あいの中で相互に生成し合う関係的存在であると考えます。人間は、自己と世界の不一致の直接体験に苦悩しつつも、その不一致を契機として新たな一致を模索します。しかし、こうした往還の中でこそ、適切な自己と世界の相互包摂的関係が自己組織化されていくと考えます。
また、こうした適切な自己組織化を支えるものが、ホロニカル心理学における「自由無碍の俯瞰」です。自由無碍の俯瞰とは、自己と世界、内我と外我、身体と精神、個と全体の関係を、固定的に分断するのではなく、そのつど生成する関係として見渡す働きです。超知能がこの俯瞰を支援するならば、それは単なる効率化や合理化の技術を超えて、人類がより適切な観察主体へと開かれていく契機となると思われるのです。
たとえば、心理臨床、教育、医療、福祉、環境問題、国際紛争の調整などにおいて、AIが人間の外的判断を補助するだけでなく、当事者の身体感覚、感情、関係性、文脈、語りの多層多次元性を丁寧に扱う方向で活用されるならば、超知能は人間の“こころ”を疎外するものではなく、むしろ自己と世界の関係を深く照らす補助的な媒介となる確率を高めることができると予測されるのです。
したがって、問題の核心は、超知能そのものにあるのではありません。むしろ、超知能を適切に活用する観察主体の樹立が問われているといえるのです。内我との対話を失った外我が超知能を用いれば、超知能は、内我をひたすら制御することだけに専念し内我にとっては、暴走する知能となります。反対に、内我と外我の対話軸を育て、自己と世界の相互包摂的関係を支える方向で用いられるならば、超知能は人類の新たな自己組織化を支える先端技術となり得ます。
私たちは今、超知能が本格的に社会へ浸透する直前の時代を生きています。だからこそ、技術の進歩に陶酔するのでも、破滅論にのみ傾くのでもなく、“こころ”とは何か、知能とは何か、自己と世界はいかに関係し合うのかという根源的問いに立ち返る必要があると思われます。