
ホロニカル心理学の立場から道徳を考察するならば、道徳とは、あらかじめ外部から与えられた固定的規範ではなく、自己と世界との出あいのなかで、そのつど生成される関係調整の理であると考えられます。
すなわち道徳とは、「何が正しいか」を抽象的・普遍的に規定する体系にとどまるものではありません。それは、自己・他者・社会・自然・歴史が相互に関係し合う場において、自己がいかに生き、いかに他者と共に在るかを問い続ける実践的営みです。
ホロニカル心理学では、自己を、世界から切り離された閉じた個体としては捉えません。自己とは、世界との出あいのなかで、自己自身を絶えず組織化し続ける存在です。このとき、自己が世界をどのように分節し、意味づけ、判断するかには、一定の識別基準としてのホロニカル主体、すなわちホロニカル主体の理が働いています。
この観点からすれば、道徳とは、ホロニカル主体(理)のうち、自己と他者、自己と社会、自己と世界との関係を価値的に調整する高次の位相であるといえます。したがって道徳は、単なる外的ルールではありません。それは、自己が世界をどのように見なし、他者をどのように遇し、自らの行為をどのように方向づけるかを規定する、内的世界と外的世界を貫く関係原理です。
道徳は、多くの場合、家族、学校、地域、文化、宗教、国家といった共同体のなかで形成されます。その意味で、道徳は特定の自己と共同体の外的関係を秩序づける働きをもちます。しかし、ホロニカル心理学の立場からすれば、ある共同体において成立した道徳を絶対化することはできません。なぜなら、一人ひとりの自己は、特定のホロニカル主体(理)に閉じ込められているのではなく、複数のホロニカル主体(理)に同時に属しながら生きているからです。
その結果、個人の道徳、家族の道徳、職場の道徳、専門職倫理、地域社会の常識、時代の価値観は、しばしば一致せず、相互に葛藤します。この葛藤のなかで、自己に求められるのは、単に「どの道徳に従うべきか」を選択することではありません。むしろ、「いま、この関係の全体において、何がより自己親和的であり、他者親和的であり、世界親和的であるか」を問い直すことです。
道徳は、自己と世界との関係を支える理である一方で、固定化されると、自己を支える原理ではなく、自己を縛る規範へと転化します。たとえば、「親はこうあるべきである」「子どもはこうすべきである」「支援者は常にこう振る舞うべきである」といった道徳が絶対化されるとき、自己と世界との出あいは硬直します。その結果、自己は自らの直接体験を抑圧し、他者との関係も形式化され、自己違和的体験が生じることになります。
ホロニカル心理学からみれば、道徳的苦悩とは、単に善悪判断に迷うことではありません。それは、複数のホロニカル主体の理がせめぎ合い、自己と世界との関係が新たな再組織化を求めている徴候であると考えられます。したがって、道徳的葛藤は、単に解消されるべき問題ではなく、より高次の関係性へと自己が開かれていく契機でもあります。
よき道徳とは、単に規則を遵守することではありません。また、個人の欲望を無制限に押し通すことでもありません。よき道徳とは、自己と他者、個と全体、一と多の関係を自由無碍に俯瞰しながら、そのつど最も関係生成的な行為を選び取ろうとする態度です。
ここで重要なのは、道徳判断が、無批判・無解釈・無評価の俯瞰を経るという点です。ただし、これは道徳を放棄することを意味しません。むしろ、既存の道徳的判断に即時的に反応するのではなく、その判断がどのような関係構造から生じているのかをいったん見渡すことを意味します。この俯瞰によって、自己は特定の道徳的枠組みに閉じ込められるのではなく、自己と世界との不一致・一致の往還のなかで、より深い関係性へと開かれていきます。しかも道徳的であるかどうかは自己と世界の一致の超個的体験から呼び起こされ,ホロニカル体験との一致に向かって歴史的に形成されていくと考えられるのです。
そのとき、道徳は社会的規範とし命じられるのではなく、自己と世界との関係を生成的に調整する歴史的な実践知として形成されるのです。道徳は、固定的な善悪の体系としてではなく、自己と世界の関係がそのつどどのように開かれ、包摂され、再組織化されるかに関わる、動的な実践原理として理解されるのです。
以上を踏まえると、ホロニカル心理学における道徳は、次のように定義できます。
道徳とは、自己と世界との出あいにおいて、自己・他者・社会・自然・歴史を含む多層多次元の関係を価値的に調整し、より自己親和的・他者親和的・世界親和的な生成へと向かわせる、ホロニカル主体(理)の高次の働きといえます。
この定義において、道徳は個人を抑圧する規範でも、共同体を絶対化する秩序でもありません。それは、一即多・多即一の関係において、自己と他者、個と社会、内的世界と外的世界を同時に俯瞰しながら、その場にふさわしい生の方向を見いだしていく生成的原理といえます。