
次の物語は、ノンフィクションフィクションです。
小学3年生のA君は、級友とのトラブルが絶えません。友達から「またお前かよ」と言われるとカッとなり、「おまえなんか死ね」と言い返したり、担任が止める間もなく手が出てしまうことがあります。しかも相手の子も応酬し、トラブルは繰り返されます。
すると、「もっと厳しく指導すべきだ」「発達障害ではないか」「専門クリニックを受診した方がよい」「薬を飲んだ方がよい」といった声がAの友達の保護者から学校に寄せられます。管理職も、発達障害に関する研修などの影響から、スクールカウンセラーによる行動観察や発達検査を指示します。
検査の結果、A君には発達障害の特性が疑われました。そこで学校はA君の保護者に医療機関の受診を勧奨します。もちろん、トラブルを減らしたいという学校や保護者の思いは理解できます。実際、薬によって衝動性や不注意が軽減し、学校生活が送りやすくなる子どももいます。
しかし、ここで一つの問いが生まれます。
本当に問題の第一原因を「脳機能の問題の疑い」として捉えるだけで十分なのでしょうか。
A君と友達とのトラブルという出来事には、脳神経学的要因だけでなく、身体の緊張、怒りや悲しみなどの感情、過去の経験、友人関係、教室の雰囲気、担任との関係、家庭での安心感や不安感、さらには発達障害をめぐる社会的言説までもが折り重なっています。
つまり、「カッとなった」という一瞬の出来事そのものに、多層多次元にわたる要因が、あたかもホログラフィーがホログラム的に情報を織り込んでいるような現象として捉えることができるのです。その意味では、ADHDという観点は、この出来事を理解するための複数の視点の一つにすぎないといえるでしょう。
たとえば、A君の抱えている問題には、脳神経学的には衝動性の問題として理解できる面があるかもしれません。しかし同じ問題に対して、別の視点からは、「どうせ自分は悪者にされる」という思いが影響しているのかもしれません。あるいは、教室にからかいや排除が生じやすい文化があったのかもしれません。家庭での緊張や不安が背景にある可能性もあります。さまざまな要因が「カッとなった瞬間」に織り込まれている可能性があるのです。
ADHDという医学的診断の視点は重要です。しかし、それだけで出来事を十分に理解することはできないといえるのではないでしょうか。
ところが一旦、「ADHDだから」「薬が必要だから」という説明が場を支配すると、支援の内容が医学的対応に偏りやすくなります。薬をどうするか、服薬量をどうするか、といった医学的診断の議論に集中しやすくなり、他の問題が覆い隠されて見えにくくなってしまうという危険性があるのです。
もちろん状況によっては、薬によって症状が軽減することで他の問題が好転することもあります。しかし、現段階において投薬治療は主として対症療法の範囲にあり、発達障害そのものに対する根治的治療ではありません。したがって、薬だけで友達との友好関係が育つわけではなく、自己肯定感や教室文化が変わるわけでもありません。
そのため、多くの投薬治療の限界を知る発達障害の専門医ほど、「薬は必要な場合もあるが、それだけでは十分ではない」と考え、多角的アプローチの重要性を認識しています。
多角的アプローチとは、多層多次元に見立てることではじめて可能になるものです。友達との関係をどう修復するか。教室の安心感をどう高めるか。先生との信頼関係をどう築くか。家庭で安心して話せる時間をどう増やすか。本人が得意なことで認められる経験をどう作るか。怒りが爆発する前のサインをどう理解するか。
支援の焦点は、「脳を治すこと」から、「子どもと世界との関係を育てること」へと広がるのです。
近年発達科学やシステム論、関係論的心理学も、人間の行動を個人内部だけでなく、人と人との相互作用や環境との関係の中で理解しようとする統合的方向へ歩みを進めています。
A君の怒りは、A君の脳だけで生じたものではありません。しかし同時に、環境だけで生じたものでもありません。自己と世界が相互に影響し合いながら、一つの出来事を共に生成しているのです。
したがって、「A君が問題なのか」「環境が問題なのか」という二者択一ではなく、その関係全体を見ていく必要があります。
発達障害という概念は重要です。しかし、それだけですべてを説明しようとすると、再び「問題はその子の中にある」という見方に戻ってしまう危険を忘れてはならないといえるのです。
これから求められるパラダイムは、人格責任モデルでも、脳機能障害モデルだけでもありません。生きづらさや苦悩という出来事に包摂されている多層多次元の要因を統合的に理解する、多層多次元モデルへの転換と考えられるのです。
A君のトラブルという出来事に包摂されているミクロからマクロに至るまでの多層多次元の複雑な要因が、「ホロニカル」に絡み合っているという視点から理解する、新たな統合的パラダイムの構築が求められていると考えられるのです。