
人間は、観察主体としての意識の尺度や関心に応じて、森羅万象を多層多次元の諸現象として識別します。この識別基準をホロニカル心理学では、ホロニカル主体(理)としています。しかし、この識別は、それぞれの現象が、互いに切り離された自律自存の実体として存在することを意味しません。また、観察主体も、識別される諸現象の外部に独立して存在するのではなく、身体・他者・環境・社会歴史的などの一切合切の影響を受けながら、森羅万象から識別される出来事としてと成立しています。したがって、識別するという働き自体も、自己と世界の関係において生起する出来事に含まれます。これは、観察主体によって識別されなければ、他者や世界が存在しないという意味ではありません。
ホロニカル心理学では、一瞬・一瞬に生起する「一なる出来事」が、そのまま、多層多次元に識別される諸現象として立ち顕れると考えます。
したがって、ここでいう「一なる出来事」とは、多層多次元に識別される諸現象とは別に、それらの背後に一つの実体が存在するという意味ではありません。「一なる出来事」と多層多次元に識別される諸現象とは、別々のものではなく、同じ出来事が「一」と「多」という異なる相において立ち顕れると考えられるのです。なお、ここでいう「一」は数的な一個ではなく、識別によって諸現象として区別されても、それぞれを自律自存の実体として切り離すことのできない、出来事の全体性を意味しています。
この全体性は、観察主体が出来事のすべてを把握できることを意味しません。また、識別以前に完成した全体が存在し、その後に部分へと分割されるという時間的な順序を想定するものでもありません。「一」と「多」は、互いに異なる相でありながら、切り離すことのできない関係にあります。
また、「一瞬」とは、単に時計によって測定される点的な瞬間ではありません。それは、自己と世界が同時に生成し、一つの出来事として立ち顕れる「生成の現在」を意味します。すなわち、過去から受け継がれた諸条件と、未来へと開かれた可能性とをそのうちに包摂する、刹那としての一瞬です。この一瞬は、過去や未来から切り離された孤立した現在ではなく、身体・関係・社会・歴史と常に接続しながら絶えず変容する瞬間です。
ここでいう自己と世界の「同時生成」とは、自己の意識が世界を無から創造することではありません。身体的・物質的・社会歴史的な諸条件との関わりにおいて、自己がどのような自己として、世界がどのような世界として立ち顕れるかが、相互に関係づけられながら成立することを意味します。
この一瞬・一瞬において、多層多次元に識別される諸現象は、相互に独立したまま並存しているのではなく、互いに包摂しあいながら生成・消滅する「一なる出来事」として生起します。
ここでいう「相互包摂」とは、多層多次元に識別される一つ一つの現象のうちに、他の諸現象との関係と「一なる出来事」全体の働きとが折り込まれ、同時に、「一なる出来事」の全体もまた、それら一つ一つの現象を包摂しつつ立ち顕れる関係を指します。ホロニカル心理学では、ホロニカル関係にあるという言い方をします。ただし、これは、一つの現象のうちに、他のすべての現象が同じ形で縮小されて含まれているという意味ではありません。それぞれの現象が、その固有の差異を保ちながら、他の諸現象との関係を通じて成立し、全体のあり方にも関わっているという縁起的包摂関係を意味します。
したがって、ホロニカル関係は、部分と全体、自己と他者の差異を消去するものではありません。また、相互に関係することは、その働きや影響が均等であることを意味しません。そこには、身体的条件や社会的立場、権力や資源の偏りなどによる非対称性も含まれます。他者は、自己との関係において立ち顕れながらも、自己の理解に尽くされない、お互いが代替不可能な存在同士です。
一瞬・一瞬の出来事は、観察主体の尺度に応じて、ミクロな位相としても、マクロな位相としても識別されます。したがって、極小の場における出来事と極大の場における出来事とは、単純に同一のものでも、相互に無関係な別々の出来事でもありません。それらは、「一なる出来事」を異なる尺度と位相から捉えるときに識別される、相互に関係した諸相として理解されます。ただし、それぞれの尺度に固有の構造や働きまで同一であるとは考えません。どのような関係が成立しているかは、個々の出来事に即して具体的に検討する必要があります。
ホロニカル心理学では、このように自己と世界がホロニカル関係的に立ち顕れる、非実体的な場の働きを“こころ”と捉えます。“こころ”は、個人の内部に自律自存する実体ではありません。身体をもち、自己組織化しながら生きる人間と、他者・環境・社会歴史的条件との関わりにおいて、自己と世界が一瞬・一瞬に生成消滅を繰り返してしてい場といえます。この「場」も、自己と世界を外から包み込む容器や、その背後にある第三の実体を意味するものではありません。
この“こころ”の場には、観察主体と観察対象とが分化し、両者の関係が識別される局面と、その境界がなくなり、出来事そのものとして直接に生きられる局面とが、相矛盾しながら包摂されています。後者は、単に識別の能力が未発達であることを意味しません。識別する働きが成立していても、その働きによって自己と世界を隔てる構えが退き、主客が分かれる以前の直接体験として、出来事が立ち顕れる瞬間を含みます。
ホロニカル心理学では、観察主体と観察対象の関係そのものを、観察主体自身の構えも含めて捉え直す働きを「俯瞰」と呼びます。ただし、俯瞰は、出来事の外部に立つ観察者を確立したり、より高い位置からすべてを見渡す固定的な視座を獲得したりすることに尽きません。
俯瞰には、観察主体が無我となり、観察主体と観察対象、自己と世界の境界がなくなって、出来事そのものになる瞬間も含まれます。この瞬間は、独立した観察主体が出来事を所有するように体験するというよりも、出来事そのものが直接に生きられている局面として捉えられます。ここでいう「無我」や「無境界」は、体験において自己と世界を隔てる構えがなくなることを意味し、身体的な区別や、自己と他者の倫理的な境界まで消滅することを意味しません。
したがって、俯瞰は、主客の分化した局面を捉える働きと、主客の境界がなくなる直接体験とを含み、それらとの関わりのなかで観察の構え自体が変容していく、動的な働きです。極小のミクロから極大のマクロまで、特定の尺度や視座に固着せず、自由無礙に視点を移していくことに開かれています。ただし、それは、有限な人間があらゆる尺度を同時に見通せることではなく、自らの視点の限界にも気づきながら、捉え方を開き直していくことを意味します。
自己と世界の関係は、このように、身体的・物質的・社会的制約と、代替不可能な他者への応答を伴いながら、自己自身の直接体験として歴史的・時間的に成立します。心理社会的支援は、この過程に参与する実践です。被支援者と支援者は、苦悩が生起する出来事を共に捉え直し、自己と世界の関係を共創的に俯瞰する場を形成していきます。
その際、自己と世界の出あいの不一致・一致の繰り返しにあって、不一致の消去や一致体験の獲得を、一律の目標とはしません。無我や無境界の体験そのものを、支援の到達点として求めるものでもありません。被支援者が苦悩とその成立条件を識別し、必要に応じて関係や環境、制度に働きかけながら、少しでも生きやすい道を発見・創造する可能性を支えます。ホロニカル関係の理解は、対立や不利益を受け入れるよう求める根拠ではなく、差異や非対称性を見失わずに、必要な変化を探究するための基盤となります。
以上のことから、ホロニカル心理学の基本仮説を、次のように定式化できます。
・あらゆる現象は、観察主体の尺度や関心に応じて部分および全体として識別されるが、観察主体を含め、部分と全体は互いに切り離された自律自存の実体ではない。一つ一つの部分には、他の諸現象との関係を通じて全体の働きが包摂され、全体には一つ一つの部分が、その差異を保ちながら包摂されて立ち顕れる。一瞬・一瞬の出来事は、この「一即多・多即一」という相互縁起的な包摂関係、すなわち「ホロニカル関係」において生成・消滅する、関係的かつ生成的な出来事として理解される。
・“こころ”とは、この関係において、自己と世界が同時に生成する、非実体的な場の働きである。そこには、観察主体と観察対象が分化する局面と、その境界がなくなり、出来事そのものとして直接に生きられる局面とが含まれる。俯瞰とは、これらの局面を含みながら、観察主体と観察対象の関係および観察の構え自体が開かれ、変容していく働きである。
この基本仮説は、あらゆる現象について実証済みの法則を提示するものではなく、自己と世界、“こころ”と心理社会的支援を理解するための原理的仮説です。その妥当性は、概念相互の哲学的整合性、直接体験を含む体験記述の精密さ、具体的な関係や支援過程についての経験的検証、他者の尊厳や権利をめぐる倫理的検討によって、それぞれ評価されます。原理的仮説、体験についての記述、検証可能な個別仮説を区別し、実践と研究から得られる知見に照らして、継続的な修正と精緻化に開かれていることが求められます。