トラウマの扱い方(3):専門家と社会一般での微妙な違い

ある箱庭

「あの時の言葉がトラウマになった」と表現するなど、多くの人が「トラウマ」という言葉を日常的に使うようになりました。しかし、「トラウマ」という言葉は、人と時代によって随分使い方が異るように思われます。心理相談に40年近く携わっている者としては、特にトラウマという概念に対する社会の反応には、かなりの時間的変遷があるというのが肌感覚レベルでの実感です。何しろ、40年以上前の心理相談の現場では、「トラウマ」という言葉はほとんど使われることはなかったのですから・・・。

日本でトラウマという概念が専門家の間で使われはじめたのは、確か阪神大震災後の被災者の方々への適切な心理的支援法を臨床心理士や精神科医等が必死に求めはじめた頃ではなかったかと思います。この時、アメリカのベトナム戦争による戦争体験とその精神的後遺症の研究から、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という概念が一気に日本に積極的に取り入られるようになったのです。また、その頃から、児童虐待のもたらす深刻な問題に対しても、トラウマからの研究も積極的になっていきました。その後、配偶者に対して暴力を振るうドメスティックバイオレンス(DV)や、デートにおけるDV、パワハラなどの領域でも、トラウマという切り口からの問題提起がされるようになりました。

アメリカや日本の医師を中心とした精神医学の領域では、米国精神医学会の「DSM」という診断基準でトラウマを扱うことが増えています。その定義では、死の危険に匹敵するほどの出来事に遭遇して、強い恐怖、無力感、絶望感が伴う状態への専門的概念ですので、極めて限定的使い方です。それに対して、今日、ちまたでは、「ストレスで、こころが傷ついた」という感じで、もっと広い意味で使われています。

そして恐らく、トラウマという言葉が日常的に頻発して使われるような生活の場に生きる人たちにとっては、ちょっとした相手の無理解に対する批判・不満の意味を暗喩して「トラウマ」という言葉を使う人を散見するようになってきました。この40年あまりを経て、誰もがトラウマという言葉にとても過敏になる社会になったといえます。トラウマという言葉が、新たなトラウマを生み出しているとすらいえます。

“こころ”の現象に関して、心理学、臨床心理学や精神医学が作りだす専門用語が、その意味の奥深さや厳密性を失って、一種の流行語になってしまうと、社会そのものが、表面的な語感だけが喧噪語のように飛び交うように変質します。こうなると心理学用語や精神医学用語が悪しきレッテル貼りばかりを拡大し、人々の不安をかえってあおり、人々のこころの柔軟性や融通性を硬直化させていってしまいます。

大切なことは、「トラウマ」という言葉のもつ言質と奥深い意味です。表面的な言葉だけではとても言い表すことのできない苦しい気持ちや体験の原点に立ち返ることです。トラウマという言葉を使う立場にある人も聴く立場にある人も、人がトラウマという言葉で語りたくなるような生きづらさに耳を傾け、その苦悩を共にし、ほんの少しでもより生き易くなるような人生の道を一緒に発見・創造することの方を大切にすべきです。

社会で思われているように、“こころ”の深い傷は、吐き出すことによって気持ちが楽になるような簡単な代物ではありません。むしろ語れば語るほど、脳神経学的な連鎖反応があって、かえって辛くなり、生き辛くなる危険性すらあります。そこで、こうした危険性を知っている支援者は、トラウマを対象としてたケアやセラピーの研究と自己研鑽に励みます。そして、そこで学んだ「臨床の知」を生かしながら、「過去の出来事の記憶」が「今、現在の“こころ”を支配」してしまう状態から、「現在から、過去を過去のものとし、未来に希望の開ける現在」に変容させていく作業に付き添おうとするのです。そのためには、「今・現在」や「トラウマを記憶している身体」の安定化をまずはとても重視するようになってきているのです。

人が、トラウマからいかに生き延びていくか(トラウマケア)は、クライエントや支援者だけの問題でなく、みんなの問題といえるのです。