“こころ”とは(72):ホロニカル心理学における視点

後藤純男美術館にて

ホロニカル心理学では、西洋から東洋にわたる宗教、哲学、心理学の全体を俯瞰する中で、“こころ”とは、個人内の精神活動に限定されるようなものではなく、物理現象を含み、過去・現在・未来の区別なく、一切合切の現象を映し、かつ創造し続けると考えています。

しかし、同じ場に対しても、観察主体が、観察対象として精神現象物理現象に分けるような二元論的思考のとき、“こころ”は精神現象となります。

また、観察主体が、すべての現象をすべて物理現象に還元する一元論的思考のときは、“こころ”の現象もすべて物理現象に還元されます。

西洋思想史においては、二元論が正しいのか一元論が正しいのは重要なテーマとして展開され、今日まで合意形成にまでは至っていないと思われます。

こうした西洋思想の流れに対して、伝統的な東洋思想においては、「無」の精神現象も「有」の物理現象も、観察主体となる「我」の意識が創り出している「幻想」「妄念」に過ぎないものを誤って理解していると否定し、観察主体が無となって観察対象と無境界となる境位に哲学でいう「絶対無」、仏教でいう「空」を根源的な実体や真理としてむしろ肯定してきたといえます。

多層多次元な有無の現象に分節される経験的世界の根底には、「我」の意識が無となれば、自己と重々無尽に区別される世界などどこにもなく、生成消滅を無常に繰り返す絶対無差別の無自性のあるがままの出来事があるだけだとする東洋の哲人の本源的直観を重視してきたのです。

西洋では、観察主体による万物の意識化を重視し、逆に意識の底の無とは「虚無」として恐れる傾向にあります。西洋に対して東洋では、観察主体が観察対象として万物を識別する以前の主客未分の状態を、何も他から区別するものもなき真実の本源として、「絶対的な無」として積極的に肯定してきたといえます。

ホロニカル心理学は、生きづらさを契機により生きやすくなる生き方を“こころ”自身に学びながら発見・創造しようとする行為から生まれた実践から生まれる学問です。ホロニカル心理学は、宗教、哲学、科学の影響を受けていても、宗教でも、哲学でも、科学でもありません。

しかも、自己自身の“こころ”から離れて“こころ”の現象を探究するものではありません。

こうした立場からすれば、“こころ”の捉え方において、西洋が正しいとか東洋が正しいという是非を問うことも、観察主体と観察対象との組み合わせの差異からくる“こころ”という場の現象の差異に過ぎないと考えます。

それ以上に大切なことは、観察主体と観察対象が不一致となったり一致するときを含み、いかなる関係になるときに、これまでの生きづらさが生きやすくなるかを、自由無碍の俯瞰の立場から主体的に実感・自覚しながら生きることにあると考えています。