実感と自覚
明治以降積極的に西洋から取り入れられてきた心理学は、“こころ”の現象を対象化し、自己内省したり、自己分析したり、自己洞察したり、自己観察します。こうした観察主体が“こころ”の現象を観察対象として観察するという光学的な構図は、「近代的自我(個我)が、こころの現象を意識化する」ことを重視するパラダイムの上に成り立っているといえます。
しかし、西洋的心理学が取り入れられる以前の日本では、“こころ”の現象をそのままあるがままに実感することを重視し、“こころ”を対象化することを忌避していたといえます。いや、むしろ、自己鍛錬としても、自己と世界が無境界となる触覚的覚醒が重視されていたといえます。日本では、“こころ”は学問の対象ではなく、心身一如の無の境地を極める修養・鍛錬のテーマだったといえます。
今日の日本人は、“こころ”の捉え方や“こころ”とのつきあい方が随分欧米化したといえますが、それでも日本人の心底には、日本的な“こころ”の捉え方があります。
ホロニカル心理学では、欧米と日本の“こころ”に対する姿勢の違いも、直接体験を観察対象として観察しようとする時と、自己と世界が「一」となる直接体験をあるがままに実感する時の差異の観点から徹底的に捉え直します。
ホロニカル心理学では、西洋の近代的自我も重視しますが、直接体験の覚醒と意識化を共に重視する立場から、直接体験の「実感」とその「自覚」を大切にします。
絶対的真理の論理を導き出す哲学でもなく、内省的体験の極致に絶対的主体に救済を求める宗教でもなく、ましてや普遍的法則を導きだそうとする科学でもなく、個の直接体験に「実感」と「自覚」に基づいて自己と世界の「一致と不一致」にあって、少しでも両者の一致を求めるのがホロニカル心理学の立場です。