ホロニカル心理用語集

ホロニカル心理用語集

ホロニカル心理学は、心的症状や心的問題などの生きづらさを抱える人たちへの心的支援としてホロニカル・アプローチを研究していく中で、これまでの心理学概念のパラダイムから新しいパラダイムへのシフトへの必要性から自然に形成されてきました。
ここでは、ホロニカル心理学やホロニカル・アプローチで用いられる主要概念について説明します。

それ(sore)

「それ(sore)」とは、「自由無礙に見るもの『IT(イット))』であるとともに、無限に見られるもの『エス(es)』のこと」です。古来、神とか仏とか言われてきたものと同じ類概念です。「それ」と命名する理由は、神・真実在・真理・宇宙・世界などと名を与えると、名を与えた途端、言葉を産み出している文化・歴史の影響を排除しきれず、心理学も成立しなくなってしまうためです。「それ」の働きは、「本来、無言で感じとるものであって、名づけることが困難であり、名づけたくないもの」です。しかし、それでは心理学とならないため、あえて言詮不及の働きについて、「『それ』としか呼びようのないもの」というアッハ体験を根拠に名づけたのが、「それ」です。ホロニカル心理学独自の概念化です。「それ」は、自己の自己組織化のための生成生滅と統覚的統合作用をもち、究極的には、「それ」の働く根源的な場が、「絶対無=空(くう)」であることへの覚醒をもたらします。絶対無とは、西田幾多郎など哲学で提唱される概念です。存在するもの(有)と存在しないもの(無)を同時にもつものです。あらゆる対立や分別を超えたものです。西田幾多郎は、「絶対無」を「場所」と捉えており、ホロニカル心理学でも、場所に於いて「IT」と「エス」が働くと捉えています。

「IT」の働きは、極小のミクロの無限の点から極大のマクロの無限の球までを自由無礙に俯瞰しながら、それら一切合切を包摂します。「IT」による自由無礙の俯瞰が布置する度に、自己は自己と世界の一致の実感と自覚を深め、自己の意識の発達及び適切な自己の自己組織化を促進していくことができます。「IT」は、全総覧的作用であり、かつ一切合切を包摂的に統合します。自己は、命に限りのある有限の身体的自己として存在するとともに、「IT」のトランスパーソナル的(超個的)働きへの覚醒を通じて、自己自身がトランスパーソナル的存在でもあるという自己意識を発達させていくことができます。自己は、「IT」の働きに気づき度に、孤独な存在ではないことに目覚めていくことができます。「IT」の働きは、私の意識(我の意識=現実主体)が強く働きすぎると体感できません。むしろ適切な我の働きが、いったん保留されて、無我・無心となった時の方が、観察する主体と観察対象の境界が無境界(ホロニカル体験)となって、事後的に、すべてを包摂していた「IT」の働きに「我」が気づきやすくなります。

「エス」は、創造と破壊を司る生命エネルギーであり、多様化・分節化の源として生成消滅の繰り返しを司ります。「エス」は、生命と宇宙の本質的なダイナミズムを創り出す作用を意味する概念です。「エス」といえば、ジークムント・フロイト(1856-1939)の「エス」が有名ですが、フロイトの前に「エス」を発見し、フロイト理論に多大な影響を与えた医師のゲオルグ・グロデック(1866-1934)の「エス」があります。ホロニカル心理学の「エス」は、フロイトに見られるような精神現象を説明するための「エス」というよりは、グロデックに近く、精神現象や物理現象の破壊と創造を司るエネルギーとして捉えています。「エス」は、一瞬・一瞬において新たな瞬間を創造していくために、一瞬・一瞬において一切合切を破壊し、その一瞬・一瞬において新たな瞬間を絶え間なく創造しているのです。しかも、一瞬・一瞬が変化し、一瞬たりとも厳密には同じ現象が展開しない無常の世界は、「IT」によって統合され統一されています。このような非連続的連続による瞬間・瞬間の捉え方は、華厳仏教の「挙体生起」や、道元の「有時」の捉え方と相似的です。

「破壊と創造のエネルギー」の働きである「エス」と、「すべてを総覧しすべてを統合し統一する働き」である「IT」が、相矛盾しながら同一に作用することによって、自己にとっては、一見すると重々無尽にわたる世界であるが、しかし実は一(いち)なる世界でも実在世界となって立ち顕れてくることになります。

ホロニカル心理学では、「IT」と「エス」は、絶対無が、絶対無自身を鏡のように映しとろうとして自己否定しようとするところに、分化・多様化という生成生滅を司る「エス」の働きと、分化・多様化を統一する「IT」の働きが「ゆらぎ」として生まれ、両者の働きによって、絶対有の「この宇宙」が自己組織化されているという仮説をもっています。「IT」と「エス」の作用が、一即多・多即一からなる世界を創造していると考えるわけです。その結果、絶対無から創造された森羅万象の一つである自己も生成生滅をする自己として自己組織化を繰り返していると考えられるわけです。

森羅万象という現象が展開する世界(「物など、相対に有とされる現象」と「何もない空間など、相対的に無とされる現象)からなる「絶対有」としての世界)は、哲学でいう「絶対無」(西田幾多郎)、や「意識と存在のゼロ・ポイント」(井筒俊彦)、仏教でいう「空」は一見すると矛盾の関係にあります。しかしながら、「空」「ゼロ・ポイント」を哲学でいう「絶対無」と考えるとき、「絶対無」と「絶対有」は、一見、相矛盾しながら、実は同根の現象の相表裏する表裏一体の関係にあると理解できます。「絶対無」が「絶対無」自身を否定した揺らぎから「絶対有」の世界が創造されたと考えられるのです。「絶対無」という絶対的一だった楽園から絶対無としてあろうとする何かがうごめき、楽園を破綻させ森羅万象の世界が自己組織化してきたと考えられるのです。「絶対無」から新羅万象が展開する「絶対有」の世界が創造され続けていると考えられるのです。それ故、創造的世界から創造される森羅万象の一現象である自己は、もともと同根の関係にあった世界との一致を求めて、自己を自己組織化させ、いずれすべての創造の根源である「絶対無」に還ると考えられるのです。

ホロニカル心理学は、これまで「それ」は、「IT」の働きのみで捉えており、「エス」の働きの側面が十分に論考されてきませんでした。その結果、長い期間にわたって、「IT(それ)」と表記され、これまで「エス」は、「IT」と別の働きとして論じられてきました。しかし、その後、「それ」には、「IT」と「エス」の両儀性が含まれ、一切合切を全総覧的立場から統合する働きとともに、破壊と創造の生命エネルギーとしての働きもあることが心理社会的支援の実践と研究の中で明らかになってきました。「それ」とは、「見るもの(IT)」であり、「見られるもの(エス)」でもあったのです。「IT」と「エス」は、同じ「それ」というコインの表裏一体の関係にあったわけです。

自己にとっては、「見るもの『IT』と見られるもの『エス』」が展開する場所が、自己と世界の不一致・一致の出あいの場である「直接体験」にあたります。

「見るものが見られるもの」とは、日本の哲学者西田幾多郎(1870年-1945年)の「善の研究」(1911年)に徹底した論究があります。そこから引用すれば、「真に経験そのままの状態」、「色を見、音を聞く刹那、まだ主もなく客もない」、「純粋経験」に当たります。ホロニカル心理学の「直接体験」に相当します。「直接体験」こそが、分析、判断や内省に先立つ、疑いなき「実在」するものです。なお、「直接体験」を対象として分析したり判断したり内省するときに知られる直接体験とは、自己と世界が不一致になったときに自己が観察主体となって直接体験を観察対象としたときであり、一般的には「経験」といわれます。しかし、一般的に言われる「経験」とは、自己と世界が不一致になったときに自己が観察主体となって直接体験を観察対象として再構成された体験を意味し、分析・判断・内省前の実在する生々しい直接体験とは区別することが大切です。

西田幾多郎は「善の研究」の「純粋経験」の立場の哲学的論考を徹底的に深めていく中で、「純粋経験」が「我が自覚」するという心理的な判断や内省の立場ではなく、それ以前であることを考究していきます。そして、「自覚に於ける直観と反省」を発表し、「純粋経験自身が自覚する」という自己言及的意味と理解される「自覚」の立場を明らかにします。しかし、やがて「自覚」も「場所のうちにそれ自身を映す」という「場所」と「場所的自己」の関係を明らかにしています。なお、禅体験を深めている西田は、すべてが於いてある場所とは、有無を含むすべてが於いてある場であり、「絶対無」であるとしています。

西田哲学の影響を受けつつもホロニカル心理学の立場から西田哲学を脱構築すれば、絶対無の場(フィールド)に於いて、「それ」の「IT」と「エス」の働きによって、場所(世界)を自己に映す場所的自己が自己組織化されると考えられます。場所に於いてある場所的自己は、有無を含む絶対無を映す「場所的存在」です。場所的自己として自己が、自由無碍に見る「IT」となるとともに、それと同時に無限に見られる「エス」になることで、見るものと見られるものの関係が、無限に実感・自覚する自己が自己組織化されると考えられるのです。

「場所的自己」による実感・自覚から自己意識の発達を研究するホロニカル心理学の立場は、主客の区分を前提とする我の意識(主観)の立場の心理学とは明らかに異なります。ホロニカル心理学の立場から、我の意識(主観)の立場の心理学を論じれば、観察主体と観察対象が不一致のときを扱うときが、我の意識(主観)を扱うときのホロニカル心理学になります。しかし、ホロニカル心理学は、観察主体と観察対象が一致し、「色を見、音を聞く刹那、まだ主もなく客もない」瞬間も扱うという意味で、前者のみの心理学とはパラダイムが抜本的に異なります。

なお、「無」に関する東洋思想や東洋哲学の影響を受けているホロニカル心理学では、「IT」と「エス」が非一非異として働く場であり、有無を含む一切合切が展開する絶対無(=空)の場(フィールド)こそが、“こころ”と考えています。“こころ”とは、すべてが於いてある場のことです。ホロニカル心理学の“こころ”とは、観察主体や観察対象という意識すら生み出すものと考えており、一般的に考えられている「無意識を含む自己意識」より広く、物質現象及び意識現象が起きる場そのものと捉えています。

※2024.11.20以前と以降では、ホロニカル心理学における「それ」の作用の捉え方が変容していることに留意ください。以前は、「それ」の「IT」の面の論究が中心で、エスは「それ」には含まれていませんでした。その結果、長く「IT(それ)」と表記され、「エス」は別の作用として扱われていました。以降は、「それ」に「IT」と「エス」の相反する作用が同一にあるとの観点に統合されています。
※プロイセン王国の哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)は、デカルトの合理論とロックやヒュームの経験論を統合しながら、理性の限界と可能性を明らかにしていく中で、認識の背後に「超越論的主観性」があると提唱しました。カントによれば、私たちの経験は、「超越論的主観性」の枠組みによって経験が統一され、認識が可能になるとしました。しかし、人間の認識能力には限界があり、物自体(Ding an sich)は直接的には認識されないとしました。「超越論的主観性」は、すべての現象を基礎づける形而上学的(超自然的)原理であり,それ自身は世界(自然)を超越しています。こうした考え方は、「人間の認識は対象に従う」という考え方を、「対象が人間の認識の仕方に従う」という考えに逆転を迫ります。そのためカントは、「コペルニクス的転回」を図り、近代科学の科学的認識の限界とともに哲学的基盤を提供したとされています。カントの「超越論的主観性」は、「神」「仏」と同じようにホロニカル心理学の「IT」に相当すると考えられます。
※ゲオルグ・グロデックの「エス」は、「私はエスによって生きられている」と、生命が成立するうえでの根本的なエネルギーのようなものとしました。グロデックは、フロイトのいう「自我」は、エスの表現形式とします。しかし、これに対して、フロイトは「エス」は、あくまで心的装置のひとつしました。フロイトの自我は、近代的自我と言われるものに相当します、ホロニカル心理学的には、我(現実主体)のうち理性的な思惟の中心である外我に相当すると考えられます。そのためフロイトの「エス」は、現実原則に基づいて高度する自我によって制御・コントロールされるべき衝動のように扱いました。しかし、「エス」の概念を借用しながら、「エス」に対して否定的意味をもたせたフロイトに対して、グロデックは強い憤りを抱くようになり、二人の間には、決定的な溝が生まれたようです。こうしたフロイトとグロディックの係争を知る中、その差異と経緯を研究するとき、ホロニカル心理学の「エス」は、グロデックの「エス」に近いことが明らかになっています。