幸せとは:今・ここに生きる

生きてる実感は、五感や直観でもってこの世界に触れあい、何かを感じとることを欠いては得られません。

生きようと考えていたり、生きることを思い空想しているだけでは、それは頭だけの思考や観念的なものだけにとどまっています。いや、それどころか思考や観念だけで生きようとすると、いっそう生きているという実感から遠のいてしまいます。

世界と触れていると実感しているのか、世界と触れたいと考えているのかでは、生きている実感の差が生じます。

例えば、秋の虫の声に季節を感じているときと、あの虫は鈴虫と頭で分別して考えている私では、私と世界との関係に関する体験がまったく異なっています。

前者は、鈴虫の声を通じて、私と世界がつながり、秋の情感的世界に生きている実感が体験的に拡がります。このとき、あたかも鈴虫の声を聞く私と鈴虫の棲(す)んでいる世界が一体化するかのような気分になります。これに対して、後者は、私という主体は、世界から鈴虫の声を意識的に切り取り、「これは鈴虫の声だ」と識別・判断しています。この時、判断している私は、鈴虫を「モノ」として対象化しています。私と鈴虫の声との間に一線を引いて区別しているからこそ、こうした認識が可能となります。しかし、こうした判断をしている時の私には、秋の情感という感覚はなく、考えている私と鈴虫や世界との間のつながりは切断されています。こうして、この両者には、私と世界との関わりにおける体験の仕方に微妙な違いが生じるわけです。実際は、鈴虫の声を分別し判断することと、秋の情感を感じることが瞬時のうちに、行ったり来たりしているのでしょう。しかし、この往復が何らかの理由で、できなくなって、私にとって世界が触れることも、つながりのないものとして、「モノ化」してしまうと、生きている実感をもてなくなり、この世界に生きていることがとても辛いものとなることがあります。

長い引きこもりが続き、抑うつ状態に陥っていたある中学生の女の子がカウンセリングの中で、重い口を開けて次のように語りました。「先生、これまで、幸せは、遠くにある目標に向かって、ひたすら頑張って進んでいって、その目標を達成することでしか得られないものと思っていました。・・・でも、もうひとつ別の幸せってあるんですね。その幸せって、実は、いつでも、どこにもあって感ずることができるものなんだけど、・・・だから、ここにも、そこにもいつでもあるんだけど・・・だけと、これまで、私には、なかなか気づくことが難しものだった・・・でも、やっと、どこにもそこにもあると気づける時もあるようになりまた。・・・だから・・だから死のうとするのはやめました」と。

彼女は、前回のカウンセリングの帰り道、お母さんと名古屋の繁華街を一緒に歩いていたときに、ふと聞こえてきたジングルベルに感動したというのです。そしてその瞬間、ああこういう幸せ感もあるのだということにも気づいたというのです。鈴虫が人に秋の情感をもたらすことがあるように、彼女には、お母さんと一緒に聞こえてきたジングルベルに生きていることを実感し、この生き生きとした感動が生きる力を取り戻させたのです。

じゃあ、幸せとは、世界とのつながり感さえあれば、それでいいのかという声もどこからか聞こえてきそうです。それもその通りです。幸せは、今・ここに生きている実感だけでなく、未来の目標に向かって努力し、それを少しでも達成していくことによって得られる幸福もあります。人は、社会的・歴史的存在としても生きているからです。

恐らく、大切なことは、今・ここに生きているという実感をいつも気づける状態で、私は未来に向かってもちゃんと人生を創造的に歩んでいる、と思えることではないでしょうか。みなさんは、どう思われますか。

 

※カテゴリー「事例的物語」は、ホロニカル・アプローチによる実際の事例をいくつか組み合わせ、個人が特定できないような物語として構成されています。