脳と“こころ”(3):物質還元主義への不安


脳の細胞や脳内物質の変化と精神障害の関係を研究する「神経化学的精神医学」や、脳の機能を研究する「神経心理学的精神医学」などの脳科学が華々しい研究成果として報道されます。またそうした研究成果との相乗効果の中で、「薬物精神医学」もさかんになっています。どうも最近の精神医学の世界では、「生物学的精神医学」が花形のようです。しかし、こうした新しい精神医学の台頭の一方で、これまでのブント、フロイトユングや現象学などを積極的に取り入れていた「精神病理学」の後退が著しいように思われます。精神病理学研究の後退は、精神医学における“こころ”の構造や意識の研究のむしろ後退を意味するとも思えます。そうなると臨床心理学を専門とする立場からは、近接領域の精神医学が生物学的精神医学一辺倒に変貌することに、どうしても人ごとではすまされない不安を感じます。

誰でも、ちょっとした常識を働かせるだけで、脳の現象の説明=こころの現象の説明とはならないことは明かだと思います。脳科学の研究は、確かに“こころ”の現象に密接に関係する脳の機能のことを解明していきます。また、神経生理作用に影響を与える薬は、精神現象の変容にも影響を与えます。が、しかし、失業の悩みや、家族関係や対人関係上にまつわる悩みまで薬が解決してくれるわけではありません。

脳科学の研究が明らかにしていることは、決して、“こころ”や意識そのものを明らかにしているわけではないのです。意識や“こころ”の現象と脳の関係を解明していくことには意義がありますが、生物学的精神医学だけの理解だけで“こころ”の悩みの解決はしないことは明らかです。仮に、脳という高性能のコンピュ-タ-を人類が人工的につくりだしたとしても、そのコンピュ-タ-を誰がどのように動かすのかというテーマが残るわけです。そうしたコンピュ-タ-を動かし、かつ新たな情報や新たなものをつくりだす力をもったものが、なんなのかというテーマが残るのです。私は、そこにこそ“こころ”の働きがあるのではないかと思います。

人は、自己と世界との関係について悩む存在です。それは統合失調をはじめとする精神障害をもっている方であろうと、自閉スペクトラム障害をはじめとする発達障害を抱える人でも同じです。そこには脳の神経生理学的な変化だけでは対処できない問題があることをまず十分理解することがとても大切と思います。

脳は、脳を取り囲む自己と世界のさまざまな事象があって、はじめて心理的・精神的にも意味のある働きをしているのです。決して、脳は、世界や自己に関係なく独立して機能しているわけではありません。自己や世界から切り離された脳など、動かぬ電気仕掛けの物でしかありません。

人間の脳を囲む様々な事象とは、社会的、文化的、歴史的、宗教的なテーマを含む複雑なものです。自己及び世界で起きている事象が、身体的自己を通して脳の働きにすべて関係しているのです。そのことが、意識の構造、心の構造、心の病や精神障害、人格形成に影響しているといえます。

脳に関する生物学的研究の著しい成果が、社会、文化、歴史、宗教次元のテーマを、単純にすべて脳生理学現象に還元するようなものにならないことを願うのは、きっと私だけではないでしょう。

人間の脳は 単なる生物・神経学的な物質的存在だけはなく、「永遠の今」という一瞬一瞬に創造的宇宙の歩みを刻み込んだ高次な働きを有する身体的器官と考えられるのです。