意識と“こころ”

意識という言葉を使う時、深層心理学が扱うような無意識を含む立場なのか、それとも人間の思考や概念を形成するような表層レベルの意識だけに限定している立場なのかを区分する必要があります。また無意識を含む立場にあっても意識的活動を生命活動に限定して考えているのか、それとも鉱物を含む無機物を構成する原子・分子や量子レベルの共振現象まで含んで意識の作用があると考えている立場なのかを区分する必要があります。そうしないと同じ意識という言葉でも共通基盤のないところでの対話となります。

ホロニカル心理学では、“こころ”という概念に対して、東洋思想の影響もあって、「絶対無」「空」ではないかと捉えています。すべての出来事は、ビックバン前の「絶対無」「空」「“こころ”」から創造される生成消滅現象ではないかと考えているからです。

本来、無のあるものに対して、「絶対無」「空」「“こころ”」などと名を与えると、たちまちのうちに怪しげな宗教か精神世界や似非科学の匂いが漂ってしまいますが、「絶対無」「空」「“こころ”」などは、本来、名を与えることもできないもの、語ることのできないものであって、それを前にしては沈黙せざるを得ないものと考えられまます。哲学、心理学、思想などでは、「それ(エス)」としかいいようのないものとしても扱われきたものと考えられるのです。

こうした“こころ”の定義を踏まえた上で、ホロニカル心理学では、意識とは“こころ”の包摂されるものと考えます。意識にも無意識にも、有機物にも無機物にも、“こころ”の多様な顕れを見るわけです。精神現象も物理現象も絶対無(空)の“こころ”の顕れとして理解できるという立場です。

しかし意識については、自己と世界の出会いにあって、自己と世界を自己と非自己に区分するところに自己言及的自己意識として発生するものと考え、意識は、“こころ”に含まれるものであっても意識=“こころ”とは考えていません。

自己言及的な自己意識活動は、脳と深く関係しますが、脳=“こころ”でもありません。脳は“こころ”に反映・共鳴的反射する物質であっても、脳が“こころ”を創り出しているわけではありません。“こころ”は脳に作用し、脳は生命活動と意識活動を維持しているものと考えられるのです。

したがって、生命活動がなくなれば、脳の活動も停止し、意識活動もなくなり、身体的自己も消滅すれば、この宇宙のすべてを創造する源である「絶対無」「空」になると考えられます。