“こころ”とは(5):実感と自覚の立場から考える

現在の「心」を研究対象とした心理学を、“こころ”そのものの実感・自覚の立場から見直してみたいと思う。

「心」を研究対象とした心理学は、観察する主体の立場からの心理学であり、意識の立場からの心理学と言えます。

“こころ”そのものの立場から心理学を構築するとは、観察主体と観察対象の関係の立場からではなく、観察主体と観察対象という関係を超越した立場、すなわち観察主体と観察対象の関係そのものが生まれるところから見直すということに他なりません。

観察主体と観察対象の関係が生まれるところとは、生まれる前の刹那の観察主体と観察対象がまだ未分化でまだ「一」だった刹那の立場から見直すということに他なりません。

これまでの心理学は「心」を観察主体から観察対象とする立場、すなわち意識の立場から語られる心理学であったと言えます。それを観察主体と観察対象が「一」となっていた立場から心理学を再構成するわけです。再構成するとは観察主体と観察対象の合一した立場、主客合一の立場、自己と世界の一致した直接体験の立場から心理学を構築すると言うことに他ならないといえます。

“こころ”の立場からとは、観察主体が極限の点となってすべての観察対象と「一」となる立場から、あるいは観察主体が極限の球となって観察対象と「一」となる立場から心理学を見直すと言うことです。観察主体と観察対象とに二岐する立場と観察主体と観察対象が「一」となる立場が相矛盾しながら同一にある“こころ”の立場から心理学を構築するということです。

観察主体と観察対象の合一、主客合一、自己と世界の合一及び両者が不一致となって自己の意識と自己対象としての世界になる“こころ”の立場から心理学を構築することです。

自己と世界の二元論的立場から心を意識の観察対象として扱ってきた西洋の心の捉え方に対して、東洋は、元々、「我」が無となるところにも“こころ”の働きを見てきました。ここには、“こころ”を意識の立場から観察対象としてきた西洋と、“こころ”そのものを扱ってきた東洋の立場には差異があるといえます。

ロニカル心理学では、東洋の“こころ”の立場は、西洋の意識活動としての心を包摂することができると考えます。“こころ”が、観察対象となった途端、様々な意識活動と意識の対象となる世界が構成されると考えられるからです。

“こころ”が、すべを総覧し、すべてを統合し、すべてを統一し、すべてを映し、すべてを包摂するのです。

こうした“こころ”の働きがあることによって、すべてがバラバラにならず内と外が「一」となる世界が我々たちに与えられるのです。

“こころ”とは、絶対有、相対有、相対無がおいてあるところであり、すべての出来事が生成消滅する「絶対無」「空」」そのもののことといえるのです。