心と物質

ハイゼンベルク

何かを意識するという働きが、脳と呼ばれる物質の働きとするならば、逆にいえば、物質の働きが意識することに他ならないといえます。意識するという働きを心の働きとするならば、まさに心と物質とは、同じ現象に対して、違う概念でもってあたかも異なるもののように語ってきたということになります。

現代人は、心と物質を二分して思考することに慣れ切ってしまっています。そしてこうした場合の心の定義とは、人間の意識活動を中心とした精神活動に限定してしまっている定義といえるのです。

しかし、ここに鉱物としての「石」があるとします。その「石」が「石」としてあるのは物質的な働きがあるからです。素粒子同士の働きによって形成される原子核や電子などから分子が形成され、そうした物理学的な働きによって石と概念化するような物体を創りだしていると考えられるのです。この時、ある石を個物として石たらしめている統合的な物理学的働きを、もし意識の働きでもあると定義するならば、物理学的働き即心理学的働き、心理学的働き即物理的働きということになります。

古代人は、心と物質を区分する概念自体がなかったため、万物に呪術的な働きを感じたと思われます。現代人は、逆にあまりに両者を明確に分けてしまうため、物質と心を相いれないものとして区分し、しかも人間の精神活動だけに心の働きを限定してしまったといえるのです。

問題は、“こころ”をどのように定義するかの差異ではないでしょうか。心と物質を分けておいてから、物質の働きを心の働きと断定すると唯心論となります。といって心の働きを物質によると断定すれば唯物論になってしまうのです。

しかしながら現代物理学は、不確定性原理(ハイゼンベルク)が、観察するという行為が、観察対象となる物理科学的現象に影響してしまうということを明らかにしました。このことは物質と心を二分してきた科学にとっては大きなパラダイムシフトを要求される出来事となりました。観察するという意識的行為自体が物理学的な行為であり、観察行為が観察対象への影響を排除できないことを明らかにしたのです。

ホロニカル心理学では、心と物質は主客に二分できるようなものではないと考えます。心物一体の出来事が世界そのものと考えます。心物一体の働きのことを、唯物論でも唯心論の立場でもなく、物心の二元論に基づく「心」と区別するために、“こころ”としているのです。