「馬が走る」とは

馬が走る

「馬が走る」という表現についてだけでも、哲学者はいろいろと論じます。しかしここでは先哲の見識深い議論はとりあえず脇に置き、「馬が走る」という表現に関するホロニカル心理学的考察を示すと次のようになります。

この表現を、馬を主語とし、述語として走るという動詞によると考える場合は、ある人間(自己)が、馬を主語的なるものとして言語の識別基準によって万物から識別・区分し、馬と名付けた個物の動きに対して、走るという動詞というやはり言語を使って認識・判断したということを意味します。ホロニカル心理学の概念で言い換えると、観察主体である外我が、観察対象(馬が走っているという現象)に対して、外我が内在化しているホロニカル主体(理)の識別基準によって、「馬」という個物に関する概念を選別し、それを主語とし、主語である「馬」がとる行動として「走る」を外我が内在化するホロニカル主体(理)によって動詞を選択し、識別・判断したということになります。

しかし、「馬が走る」というのは現象です。現象ということは、観察主体(外我)が、何かを識別・判断する直前の出来事だったということです。現象とは、自己と世界の出あいの直接体験のままの出来事のことです。この何らかの情感を伴うアクチュアルな主観的出来事を直覚する内我に対して、言語を獲得した外我が、事後的に「『馬』『が』『走る』」と言語的に客観的な出来事として一般化して再構成して表現しているということになります。

ホロニカル心理学的には、主語と述語として識別・判断され再構成される前の不立文字の体験は、自己にとっては、ある世界との出あいの瞬間のあるまとまりのある動的な体験プロセスのようなものといえます。体験プロセスの段階での出来事は、自己も世界の区分もまだ無く、主客合一のある出来事といえるのです。「馬が走る」とは、言葉でもって表現する以前の自己と世界の区分なき言詮不及の出来事に、言葉を与えた表現といえるのです。