歴史的世界

世界内存在の人間にとって世界とは、私という存在に関係なく存在する物理的環境でもなく、また自然環境でもなく、私自身がそこに生きている歴史的世界といえます。

今、私はパソコンで文章を書いています。それは「物」と「身体」の関係だけでは、文章を書くという行為は成立しません。動物にとっては無機質な物体であったとしても、私にとってパソコンは、文章を書くことによって、誰かに私の意志や考えを伝達する道具としてあります。しかもそのパソコンは、私が創ったのではありません。これまでの長い人類の発明があって、人が道具として使うための製造物として、長い年月をかけて形成されたものです。眼前のパソコンには、さまざまな過去の智慧や技術が包摂されているといえるのです。

パソコンは、ペンで書くという行為とは別の形で私の行動を制約しますが、私はパソコンを制御しながら、文章という言葉を使って、新しい社会的な行為を創造することができるのです。歴史的に道具として創られたものが、私が新しい歴史的世界を創りだすことを可能としているのです。TV、パソコン、掃除機、CD、スマホ・・・現代人は、自然環境に囲まれた世界とは、まったく異なる科学文明によって製造された道具や人工物に埋め尽くされた歴史的世界に生きているのです。

道具としてのパソコンのある場所とは、パソコンによって刻々新しい自己が歴史的に創造されるとともに、自己もまたパソコンによって、あっという間に自分の意志や考えを社会に公開をすることを可能とする新しい歴史的世界に形成された新しい場所といえるのです。場所は、これまでの過去の歴史的世界によって形成され、また新たな場所を自己言及的かつ自己再帰的に創造するところといえるのです。

私の意志や考えに関する他者との不一致・一致の手応えを確かめるために、自分の考えを他者に伝えるための道具として活用しながら、一字・一字、小さな極めてローカルな、私なりの小さな歴的世界を創りだしているのです。無論、私と他者は、簡単には一致するとは考えていません。場合によっては、私の意志や考えに対して、対立し否定してくる人も出てきて、私と他者の間に不一致の溝が横たわることでしょう。しかし、自己と他者の不一致は、対立と同時に同じ時空を瞬間・瞬間共にし歴史的関係を創り出し合っている関係ともいえるのです。不一致にこそ、一致を求める動機が働きます。そこに私は、自己と世界(他者)の一致を求める創造的行為としての表現活動が突き動かされるのです。自己と世界の不一致が、私の自己を動かすのです。

人は、歴史的存在として誕生し、人の住む世界は、常に不一致・一致を果てしなく繰り返している歴史的世界でもあるのです。だからこそ、人は誰もが世界との一致を求めて生きるのではないでしょうか。

私たちは、誰もが、自己と世界(他者を含む)の一致を求めてながら、共に、歴史的存在として生きていると考えられるのです。