客観的な観察とは

観察主体(私)が、私自身のこと(自己)や世界のいろいろな物事や出来事について客観的に観察するというとき、ある矛盾を私たちは避けることができません。

観察主体が、自己や世界を観察対象とするとき、実は観察主体も自己でもあることが忘却されてしまいます。観察主体は、主観を排除した客観的立場だからという言説によって、観察主体である自己自身の主観的な影響が事実上排除されてしまっているのです。

では、観察主体がいかなる影響を与えているかを再び客観的な立場から観察対象として観察すればいいのではないかと一見思われます。が、問題はそう簡単には解決しません。そうした対応だけでは、これまでの観察主体を観察対象とした新しい観察主体は、ではその新しい観察主体を、どのように観察対象とすればよいかという問いが、無限に後退しながら続いてしまうからです。結局、観察主体を客観化する方向では、主観の影響を排除しきれないといえるのです。

このように自己は、観察対象でもあると同時に、どこまでいっても観察対象となり得ないものでもあるのです。西田幾多郎は、このように絶対的に矛盾する自己が同一にある立場にむしろ立脚して、今日の自然科学の論理の基礎を築いたとするカントを批判します。カントは、意識一般の統合的統一作用によって知識の根拠が与えられるとしましたが、西田は、カントの姿勢ではまだ不徹底で、むしろ「主観的」と批判し、「我々の自己はかかる矛盾的存在として歴史的世界に於いてある」と自己の歴史的存在面について明らかにします。

確かに科学的知識の世界は、客観的な因果論的な現象世界に満ちあふれています。しかしながら、私たちが住んでいる実在する世界は、もっと生命力に溢れるいろいろな感性的なドラマが歴史的に展開する世界でもあるのです。自己と世界は、決して切り離されておらず、自己は一方で世界に動かされ、世界に包まれながらも、他方で自己も世界を動かし、世界を自ら包み込んでいるのです。自己と世界はホロニカル関係にあるのです。実在する自己も世界も、意識一般の統合統一作用によって形式的論理的に明らかにされるような理性的なものだけではないのです。客観的なるものとは、観察主体が観察対象を観察する方向ではなく、むしろ観察主体と観察対象が同一となる実感・自覚の方向に考えられるのです。