いじめ・いじめられ

私はいじめられていると訴え続けていた人が、訴えていた相手に、私こそ、あなたにいじめられていると逆に訴えられてしまうという悪循環が起きるときがしばしばあります。

いじめ・いじめられ対策で、今日求められているのは、誰がいじめたかを判断すること以上に、こうした悪循環の連鎖をいかにして断ち切り、より安全で安心でき信頼できる関係を構築し続けるかと言う智慧の探求といえます。

怨念によるトラウマ合戦は蔓延化しがちです。背景には、対人関係における不一致への耐性心が脆弱になり、すぐに憤怒する人が増えてきているという印象があります。社会が共感を求めあったことも、むしろ共感不全が起きたときに、お互いが抱く信念同士の対立と結びつき、両者の対立の溝は一層拡大する社会が到来した感もあります。こうした悪循環に対処するために智慧が必要となるのです。

不一致に耐えるためには、不一致に附随する憤怒に対して、少し心的距離をおける態度を身につける必要があります。それは、互いに相手を非常識と思っていることを認め合うことといえます。お互いの信念の違いは、常識の違いとなるのです。相手が非常識と感じることを避けられないのです。まずはお互いに、相手は自分のことを変人と思っている可能性を認めあうことが、個性を認め合うということといえるのです。むしろ、お互いが変人同士であることを認めあっていくと、いろいろなものが混じり合って、全く新しいものが創発される確率が高まります。互いの個性を認め合うということは、互いの存在を認め合うということに他なりません。互いの存在を認めあうとは、存在の差異を共有するということです。すると、むしろ共創的な対話の場が開けてくるのです。差異の奥に、差異を超える何かが創発され、新しい感覚が創発されてくるのです。

変人関係を認めるとは、極限的には、一即多、多即一、一切即一、一即一切への気づきをもたらします。こうしたことに目覚めで行く限りにおいて差異を楽しむことが可能となります。

感情的対立や情念的な行き違いによる心的外傷は、理性なるものの助けを得て鎮静化させていくことが大切です。それは他者に求めるものではなく、各自が自らに課すべき課題であり、自らが智慧に目覚めるべきものであります。

しかしもっとも困難なテーマは、こうした努力にも関わらず不一致ばかりが激化し、相手の存在自体を否定する狂信的な信念が背景にある場合です。