再構成された観察結果

ある箱庭

日常生活における観察は、実在する世界をそのまま再現していると思われがちです。しかし、観察行為のほとんどは、ある現象について、観察しようとする人が、その人の所属する社会・文化の言語の基準によって何かを他の何かから識別・区別し、かつその人の所属する言語体系によって再帰的に再構成する行為といえます。厳密には、日常生活における普段の観察とは、言語によって識別され再構成された結果といえます。

そのため社会・文化の影響を極力排除し、普遍性や再現性による信頼性・妥当性における厳密さをもとめる実証科学などでは、徹底した理論化と客観的実験の繰り返しによって、観察結果の再現性の確率を数学的・記号論的技術をつかって極限まで高めることによって客観性を確保しようとしています。

しかし、こうした厳密さを求める実証主義的方法論は、臨床心理学や精神医学では応用が難しいことが知られています。たとえば、第3者の目からは、まったく美顔に見えても、当の本人にとっては、「鼻が高く、醜い顔」という心的現実にとらわれる醜貌恐怖などの事例などがあります。“こころ”を扱う世界では、まさに主観的なるものが実在するものとして感得されることを避けることができないのです。さらに、こうした事例を異常と判断するかどうかは、所属する社会・文化の基準(ホロニカル主体:理)によるしかないといえるのです。

DSM-5(精神疾患の分類と診断の手引き)やICD10(精神および行動の障害)といった統計学的に定められた診断基準から「大うつエピソード」「妄想性障害」と診断された事例でも、所属文化が異なれば、「神経衰弱」であったり、「霊の憑依現象」として扱われることになるのは避けられないのです。

今日、DSM-5の登場で過剰診断の傾向にあるとされる発達障害の診断も、DSM-5などが浸透してない社会では、ちょっと個性の強い人、落ち着きのない人、かんしゃく持ちと理解されるのです。したがって、心理・社会的支援における見立てに伴う妥当性とは、言語や文化を共有する社会的文脈に照らし合わせて、その判断がどれだけ所属集団で共有されるかという点に関係しており、また歴史的変遷の影響を受けているといえるのです。

精神医学でよく利用されるDSM-5(精神疾患の分類と診断の手引き)などの診断基準は、操作的診断基準を採用しており、臨床家間での信頼性(reliability)を確保するために大規模なフィールドトライアルが行われました。しかし、このことは別に実証科学が求めるような厳密な意味での妥当性(validity)までは、実は保証してはいません。「DSM-5では、どの1つの障害についても現在の診断基準では、必ずしもこれらのすべての妥当性の指標によって確かな信頼性を付与された均質的な患者集団を同定することができなうことをわれわれは認識している」とは、本診断基準の限界をもっともよく知る本診断基準を定めた専門家自身の言葉なのです。

このように精神医学における診断基準は、物理現象を扱う科学の求める妥当性の基準とは、根本的な考え方の上で差異があるといえるのです。