発達障害について

発達障害の診断は、明らかに過剰気味です。

納得できる意味のある診断もありますが、多くの診断には疑問があります。しかも同時期に異なる医療機関を受診すると、発達障害に関して異なる見解が出てくる実態も本人及び対人援助の現場での混乱に拍車をかけています。

生育歴や生活史との関係と症状形成の発生機序を考慮せず、操作的定義によってあらかじめ定められた項目について、現出される出来事を機械的にあてはめる診断に対して、その妥当性に対する疑問も、様々な立場から投げかけられはじめています。診断基準が身体医学とは異なり、バイオロジカルな基準とは別次元の対人関係や個人と社会との関係上の問題にまでチェック項目として含むことが、社会的コミュニケーションに問題がある人たちを、すべて発達障害としていることが過剰診断の要因ではないかと、診断基準の問題点を指摘する専門家もいます。

また診断行為が、すべての問題が、あたかも個人の要因に帰するかのような誤解を招き、障害の悪しき個人病理化の風潮を助長することを危惧する人も増加しています。診断が症状や特性の理解促進を促進するよき契機になる事例は極めて稀で、むしろ社会からの排除を意味する事例はとても多いのが確かに実感です。「あの人(子)は、何かおかしい、発達障害ではないか、何か検査や医者にいって診断させるべきだ」との強行な意見が年々高まっているのです。こうした社会的背景には、支援論理を装いながら、実質的には異質なるものを排除する論理が働く、社会的構造の根深い問題があるように思われます。社会的スティグマが、知らずのうちに浸透してしまっているのです。

本来、生得的な障害を抱えた人の障害とは、生まれながらのそれがもって生まれた個人的特性であると考えるならば、障害者(児)を社会に適応できるように治療するのではなく、ハンディキャップがあっても社会生活が生きやすくなるような生き方の探究や、家庭、地域社会づくりを目指すことが重要と考えられます。障害とは、いつでも誰でもなり得る問題であり、周囲の理解と対応によって、いくらでも、生きづらくもなり、生きやすくもなる社会的問題でもあることに注目すべきです。

過剰診断と思われる発達障害と診断された人の多くは、誕生以前から抱えていた遺伝的な欠損による影響よりも、適切な発達時期に適切な共鳴・共振によって応答する情緒的な存在である他者や、複雑で自然豊かな環境と触れる機会を失っていたり、知らずのうちにすり込まれた性役割や、無機質でデジタル的な物世界からなる高度情報化社会の加速度的浸透への適応型など、いずれも思考優位な外我ばかりが強化されながら育ってきた生育史や生活史上の発達の凸凹が見られます。外我優位は、生き方の自己照合の基準を内我との対話軸に求めず、外界の情報に求めがちです。その結果、内我は、ますます直接体験の直覚力を脆弱化させ、様々な感覚を統合する力を失い、特定の知覚への偏りを強めながら育っていく傾向があります。こうした発達プロセスを考慮した観点からすると、発達障害のテーマは、もっと多層多次元の観点から統合的に見極めていく観点が重要であり、それを裏付けていく研究の必要性があるように思われます。現在の発達障害の診断基準では、あまりに機械的であり操作的であり、メリット以上にデメリットが大きくなっている点を積極的に取り上げるべきと思われます。

発達障害と診断された人の中にも、できるだけ直接体験レベルで自己と他者や環境との不一致・一致の豊かな出会いを保障し、その体験を実感・自覚できるように徹底的に働きかけたりして内我の強化や充実化を図り、かつ外我と内我の対話軸を強化していくと、平板な感情表出があたかも身体に新しい血流を感じるかのようにして喜怒哀楽の表現が豊かになり、人を避けて孤独を好む傾向から、みんながいる所で孤独に耐える力をもったり、少数の人との交流を求めはじめる傾向に変容していく人も出て来ます。

その歩みは、時間がかかりますが、しかしごく自然な感情や身体的なるものに覚醒していくプロセスでもあります。そして中には、発達障害の基準を満たさなくなる人も出てくることが、支援現場の現実でもあります。

こうした事例からすると、発達障害と診断された人の多くは、医学的な病理モデルの観点だけではなく、自己と世界の関係性を含む多層多次元な発達上の問題をもった人として捉え直していくことが必要と考えられます。