共同研究的協働(6):専門家中心の支援からの転換

母集団の平均値からの著しい逸脱をもって異常と見なすことが、エビデンスのあるアセスメントという考え方があります。母集団のもつ普通の範囲を統計学的に決定し、その範囲からの逸脱程度によって異常を峻別するわけです。平均からのあまりの逸脱は、「変」というわけです。

しかしながら標準からの逸脱という考え方を、現代日本人にあてはめてみたとき、果たしてどうなるのでしょうか。現代人は、高度情報化社会による加速度的変動社会に生きています。人々はいろいろな価値観や生き方に触れることによって、個人が抱く価値観や信念もますます個性化し、生き方も多様化してきています。こうした変動は、人と人の間の共通感覚や常識の共有化をますます難しくしてきています。「普通」と「異常」の境界が曖昧化し混沌化してきているのです。お互いがお互いの個性的価値観や感覚に対して、「変な人」と感じやすくなり、共感不全が高まり、対人交流がストレスの高いものになってきているのです。

均質的だった母集団自体が個性的存在の集合に変質してきているのです。こうした社会の変動に対して、既存の臨床心理学や精神医学のアセスメントは、依然として平均的母集団からの逸脱をアセスメントし、しかもアセスメント結果の組み合わせによって、新しい専門的な概念を産出し続けます。著しい個性は、「変」であり、アセスメントの上、「○○障害」という名が与えられるのです。しかし、本来は、名状しがたき生きづらさに対して、科学的、学問的立場から新しい名が与えられると、与える側ばかりでなく、与えられた側も、生きづらさの意味が障害にすべて変換され、何かわかった気になってしまいます。しかし、ある現象に名を与えられてわかったつもりになっても、自己と世界の関係の生きづらさに何らかの変容がない限り何も変化したとはいえません。しかも名を与えたものによって、「変」を治したり、改善したりするためには、投薬や専門家による治療や指導を求めるようになるばかりになると、個人と個人、個人と社会との間の生きずらさという最も重要な問題は、個人病理化の囲い込みの中で忘れられてしまいがちです。

こうした悪しき流れは、専門家によって加速されているだけではなく、数々のメディアによっても流布され一般化してきています。そしてついに人の生きづらさや人間の苦悩は、メンタルヘルスの問題に変換され尽くし、治療の対象として管理され、市場化され、当事者が悩む権利すら奪われかねないところまで来ています。しかし生きづらさの問題は、多層多次元にわたる複雑な問題だけに、あたかもすべてを個人病理化するような視点だけでは、やがて限界がくるのは明らかです。

専門家中心の支援からの転換を図る新しいパラダイムは、苦悩を抱える当事者の主体的権利と自己決定を尊重し、苦悩を避けることのできない人生の悲哀を当事者と共有しながら、当事者の標準的社会に向かっての適応を図るのではなく、当事者と支援者も、共にもっと生きやすい人生と社会の創造に向かって踏み出すような「共創的支援」と考えられるのです。