分別と無分別

外我が事物を分別するという認識の担い手とするならば、内我は非言語的な無分別作用による直覚の担い手といえます。

また外我や内我の観察対象となる直接体験そのものは、認識や直覚前の主客未分化の段階の「あるがまま」です。外我が働くときは、自己と世界を理性の働きによって識別した知的世界が立ち顕れてきますが、内我が働くときは、表象的で感性的な世界が立ち顕れてきます。そして外我も内我もひとつになって(我=現実主体)理性と感性の区別がなくなり、かつ現実主体の働きが無となり、直接体験そのものとなったときには、華厳思想のいう事事無礙となります。