「エス」と「IT(それ)」

“こころ”そのものは、言詮不及の絶対無(空)と考えられます。絶対無(空)は、大乗起信論でいう「真如」、老荘思想での「道」に当たります。いずれも言葉以前のものを言葉で表現するしかない矛盾の中での仮名です。ホロニカル心理学「IT(それ)とか、フロイト以降の精神分析に深い影響を与えたグロディックの「エス」も根源的な形而上学的な真実在について、それぞれの歴史的文化的文脈の中で表現しようとしたものと考えられますが、微妙な差異もあります。

絶対無(空)、井筒俊彦の名著である「意識の形而上学(1993)」で真如の双面性•背反性を指摘したように、絶対無自身が自己否定的に絶対有でもあり、絶対無即絶対有にあり、絶対無は、双面的・背反的には、現象世界でもある絶対有でもあります。

絶対無(空)は、相異なる意味志向を持つ「エス」と「IT(それ)」を自己矛盾的に二岐し、相対無と相対有の非同非異の二重構造からなる重々無尽の森羅万象が生成消滅を繰り返す絶対有の世界を創造しています。自己もそうした森羅万象の一つの出来事といえます。

「エス」は、全一の世界の多様化・個性化の生成消滅に遍く作用する存在エネルギーであり、「IT(それ)」は、多様化・個性化する一切合切を内からも外からも総覧し、全てを統合する作用です。「エス」と「IT(それ)」は、同じ絶対有において双面的・背反的関係にありますが、究極的にはエスもIT(それ)も根源的な無差別である絶対無に帰一しています。

「エス」も「IT(それ)」も絶対無の双面姓・背反性においてコインの表裏のように同一といえます。その意味において「エス」と「IT(それ)」は一即二にありますが、「エス」=「IT(それ)」ではありません。「エス」=「IT(それ)」とは、絶対無であり、「エス」と「IT(それ)」が絶対的矛盾的自己同一に絶対有としてしか「エス」と「IT(それ)」はありえません。絶対有である限り、「エス」と「IT(それ)」が働いていると考えられます。

「エス」に突き動かされる自己が、自己自身が「IT(それ)」と錯覚すると神がかり的な心的インフレーションを自己にもたらします。自己が「IT(それ)」そのものになることはありえず、自己が、「IT(それ)」が一の関係にあるときとは、「エス」も「IT(それ)」共に絶対無に帰一しているときといえます。