<はじめに>
現代社会において、人間はかつてないほど自由である一方で、自己のあり方を見失いやすくなっています。「自分らしく生きる」「自分で選ぶ」「自己責任で判断する」といった言葉は、一見、自由を象徴するもののように見えます。しかし、価値が多様化・多元化する現代社会においては、何を手がかりに生きればよいのかが不確かになり、その自由は、むしろ人を孤立と不安へと追い込むことすらあります。
その背景には、自己を世界から切り離された独立した主体として捉え、理性的に判断し、制御し、選択する存在として理解してきた近代的自我観の限界があります。近代的自我観は、科学、民主主義、自由、人権思想の発展に大きく寄与してきました。しかし同時に、人間を世界から切り離された主体として把握することにより、身体感覚、情動、直観、関係性、歴史性、そして言葉になる以前の直接体験を見失わせる傾向も生み出してきました。
ホロニカル心理学は、この近代的自我観を単純に否定するものではありません。むしろ、その歴史的意義を認めつつ、人間をより根源的な水準から理解し直そうとする立場です。人間は、単に世界を認識し、判断し、操作する主体ではありません。人間はまず、自己と世界との出あいにおいて、言葉になる以前の直接体験を生きています。その直接体験の場において、自己と世界は相互に立ち顕れ、分化し、対立し、再び包摂されていきます。
本稿では、ホロニカル心理学の中心概念である「場としての“こころ”」を基盤に、自己と世界の同時生成、内我と外我の分化、自我同一性から自己同一性への転換、ホロニカル主体(理)の創発、そして心理社会的支援への応用について論じます。さらに、近代的自我観およびポストモダン的相対主義を超える新たな主体論として、ホロニカル心理学の理論的意義を明らかにします。
1 場としての“こころ”
ホロニカル心理学において、“こころ”とは、個人の内部に閉じ込められた心理作用ではありません。“こころ”とは、自己と世界が出あい、分化し、対立し、再び包摂されていく生成の場です。“こころ”は、場の働きといえるのです。
通常、“こころ”は個人の内面にあるものとして理解されがちです。しかし、ホロニカル心理学では、“こころ”を、主観的意識や脳内現象に還元しません。もちろん、脳や身体の働きは重要です。しかし、“こころ”はそれらを含みながらも、自己と世界との関係が生成される、より根源的な場として理解します。この場において、自己と世界は、あらかじめ独立して存在する二つの実体としてではなく、相互に生成される関係的現象として立ち顕れます。自己なき世界も、世界なき自己も、単純に「有る」とも「無い」とも言い切ることはできません。むしろ、自己と世界の生成と消滅を可能にしている潜在的かつ根源的な場があり、その場において、自己を含む万物と、万物からなる世界が、そのつど立ち顕れると考えられます。
したがって、“こころ”とは、単なる主観的意識でも、客観的対象でもありません。主観と客観、内と外、自己と世界、意識現象と物理現象が分化して立ち顕れてくる、根源的な関係生成の場なのです。
2 自己と世界の同時生成
ホロニカル心理学では、自己と世界は、あらかじめ別々に存在して後から関係するものではありません。自己と世界は、根源的な場において同時に生成される関係的出来事です。
自己とは、世界から切り離され、世界と対立するだけの閉じた個体ではありません。また世界も、自己とは無関係に外部に固定的に存在する対象ではありません。自己と世界は、絶え間なく、互いに包み、包まれる相互包摂的な関係にあります。
たとえば、ある人にとって意味をもって立ち顕れている世界は、その人の身体、感覚、記憶、言語、関係性、歴史的文脈によって構成されています。その意味で、Aという自己の死は、Aにとっての世界の消滅を意味します。しかし、Aの死という出来事は、Aの死後、A と独立してあった客観的世界が残るという意味ではありません。そうではなく、Aが生きた痕跡、関係、記憶などの影響を組み込んだB、C、D……の自己と世界が生成され続けていくということです。Aだけではなく、B、C、D……を離れた客観的世界があるのでなく、A なき後の世界が、B、C、D……と共に生成され続けいくと考えられるのです。
こうした捉え方の枠組みは、ドイツの生物学者・哲学者であるヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環世界論」とも響き合います。「環世界論」は、世界を単なる客観的対象としてではなく、主体と世界との関係のなかで意味づけられ、立ち顕れる世界として捉える点に特徴があります。
ユクスキュルにおいて環世界とは、生物が何を知覚し、何に反応し、どのように行為するのかという、知覚世界と作用世界の循環によって成立する意味世界です。つまり、生物は外的環境をそのまま受け取っているのではなく、それぞれの身体構造、感覚器官、行動様式に応じて、自らにとって意味をもつ世界を生きているのです。
私たちは、生物が同じ一つの世界の中に生きていると考えがちです。しかし、ユクスキュルは、生物はそれぞれ固有の環世界を生きていることを明らかにしました。同じ場所にいても、ダニと人間では、まったく異なる世界を生きているということです。人間とは異なり、ダニにとっては、光、哺乳類の匂い、温度など、ごく限られた刺激だけが意味をもちます。つまり、同じ場所にいても、それぞれの生物にとって意味をもつものだけが、その生物の世界として立ち顕れるのです。
「環世界論」は、近代的な客観主義に対して重要な問いを投げかけました。そして、生物学だけでなく、現象学、記号論、動物行動学、認知科学、心理学、哲学などにも大きな影響を与えた理論として位置づけられます。
ホロニカル心理学の視点から見るならば、「環世界論」の意義は、人間理解にも拡張して考えることができます。世界とは、自己との関係において生きられ、感じられ、意味づけられる世界です。自己と世界は、根源的な場において同時に生成される関係的出来事なのです。
たとえば、同じ学校、同じ家庭、同じ職場にいても、人によってその世界の顕れ方は異なります。ある子どもにとって学校は、友人と出会える楽しい場所かもしれません。別の子どもにとっては、失敗を見られる場所、評価される場所、傷つけられる場所として立ち顕れてくるかもしれません。外側から見れば、そこには同じ教室、同じ机、同じ教師、同じ時間割があります。しかし、その子にとっての環世界は同じではありません。
ホロニカル論的に言えば、これは単に「本人の受け取り方の違い」の問題ではありません。自己と世界との出あいにおいて、世界そのものが異なる意味世界として立ち顕れる出来事として理解できます。失敗や評価、傷つけられることを恐れる子どもにとっては、「学校には危険だけでなく、安心できる関係や経験もありうる」ということを、実際の体験を通して少しずつ感じ取っていく過程が必要です。その体験を通してはじめて、その子にとっての学校は、脅威だけの世界ではないものになるのです。
この点において、ホロニカル心理学は、「環世界論」が示した主体ごとの意味世界を、人間の直接体験、内我・外我の分化、自己組織化、そして心理社会的支援の実践論へと展開する点に特徴があります。
3 直接体験と一致・不一致
ホロニカル心理学において重要なのは、自己と世界の出あいにおいて生起する直接体験です。直接体験とは、言語化される以前に、身体感覚、情動、直感、違和感、安心感、緊張、腑に落ちる感じなどとして体験される、自己と世界との原初的な接触です。
自己と世界との出あいには、大きく二つの相があります。一つは、自己と世界が調和し、境界が相対化され、全体として腑に落ちるように体験される一致の相です。もう一つは、自己と世界とのあいだにズレ、違和感、葛藤、緊張が生じる不一致の相です。
この不一致は、単なる問題や障害ではありません。不一致は、自己と世界との関係が新たに組み替わろうとする契機です。違和感や苦悩は、自己が壊れていることを意味するのではなく、自己と世界との関係が再組織化を求めていることを示す徴候でもあります。
他方、一致の体験、すなわちホロニカル心理学でいうホロニカル体験とは、自己と世界の境界が無境界となり、自己が世界のうちに、世界が自己のうちにあるように感じられる体験です。そこでは、自己は孤立した個体ではなく、より大きな全体との関係のなかで生きていることを実感します。
この不一致と一致は、一度限りの静的な状態ではありません。自己と世界は、不一致と一致を繰り返しながら、そのつど新たな関係を自己組織化していきます。この反復的な動きこそが、ホロニカル心理学における生成の基本構造です。
4 一即多・多即一としての生成
ホロニカル心理学では、万物は一なる場から生成される、多様でかけがえのない出来事であると考えます。一なる場は、多なる万物として顕れます。多様な存在は、それぞれ独自の個性と差異をもちながらも、根源においては一なる場の働きとして理解されます。ここに、一即多の関係があります。
しかし、自己が自律した自己を自己組織化しようとするとき、自己と世界とのあいだには不一致が生じます。自己は世界に包摂されるだけの存在ではなく、自らを一つの主体として組織化しようとします。そのとき、自己は世界とのあいだに境界を生み出し、対象を識別し、意味を分節し、自らの生きる方向を選択しようとします。
ただし、この不一致によるズレの励起は、自己と世界の断絶を意味するものではありません。むしろ不一致は、自己と世界が新たな関係を自己組織化していくための契機です。不一致があるがゆえに、自己は世界を包摂しようとし、世界もまた自己を包摂しようとします。この相互包摂の運動において、自己と世界は、多即一の関係を自己組織化していきます。
このように、自己と世界は、一即多と多即一のあいだを絶えず往還しています。この往還は、直接体験のうちに絶えず生起する非連続的連続のプロセスです。すべては、かけがえなき出来事の無常の流れとして理解されます。
5 自我から自己へ
ホロニカル心理学は、複雑化した現代社会を生きるためには、自我中心の生き方から、世界と同時生成される自己を重視した生き方へと転換していく必要があると考えます。
ここでいう自我とは、近代以降の人間観において重視されてきた、理性的・意識的・判断的な主体のことです。ホロニカル心理学の概念でいえば、それはおおむね外我に相当します。
一方、ホロニカル心理学がいう自己とは、近代的自我のように世界から切り離された孤立的存在ではありません。自己とは、自己と世界との出あいにおいて、不一致と一致を直接体験しながら、そのつど自己自身を組織化していく動的な存在です。
近代的自我は、人間を「考え、判断し、制御する主体」として発展させてきました。このことは、科学、民主主義、自由、人権思想の発展に大きく貢献しました。しかし同時に、身体感覚、情動、直感、言葉になる以前の違和感、そして自己と世界との直接的な出あいを軽視する傾向も生み出しました。
したがって、自分らしく生きるとは、理性的に判断することだけを意味しません。それは、自己と世界との出あいにおいて生起する非言語的な直接体験に耳を澄まし、内我と外我の対話を通して、自己自身をより適切に自己組織化していくことを意味します。
6 自己の意志と自我の意思
ホロニカル心理学では、自己の意志と自我の意思を区別します。
自我の意思とは、多くの場合、外我が社会的規範や自我同一性に基づいて、「こうすべきだ」「こうしなければならない」と判断する働きです。これは、歴史的・社会的に形成された価値や規範を内在化した意思です。近代的自我の意思は、理性主義、人間中心主義、個人主義を基盤として発展してきましたが、現代社会では、その影の部分も露出し始めています。
それに対して、自己の意志とは、内我と外我の対話を通して、自己と世界との関係をより適切に自己組織化しようとする自己自身が有する自由意志の働きのことです。自己の自由意志とは、単に「自分の思いどおりに選ぶこと」ではありません。それは、自己と世界との出あいにおいて、内我が直覚する直接体験、外我による言語化と判断、そして自己と世界との一致体験を照合しながら、自己が自己自身として生きる方向を見いだしていく働きです。
この意味で、自我の意思は、自己の自由意志に基づいて変容していく必要があります。自我の意思が自己の自由意志から切り離されると、人は外的規範に従いながらも、内的には空虚さや違和感を深めていきます。しかし、自己の自由意志に基づく自我の意思は、単なる義務や規範ではなく、自己と世界をつなぎ直す創造的な判断へと変容します。
7 内我と外我の対話
ホロニカル心理学では、内我と外我を、最初から別々に存在する二つの実体とは考えません。両者は、自己と世界との出あいにおける直接体験から分化して成立する、二つの方向性をもつ意識作用です。
自己と世界の出あいに不一致が生じるとき、まず言葉になる以前の直接体験が生起します。それは、胸のつかえ、身体のこわばり、ざわめき、違和感、安心感、緊張、腑に落ちる感じなどとして体験されます。この直接体験をそのまま直覚し、感性的・身体的に受けとめる方向に成立するのが内我です。
一方、その直接体験を対象化し、「これは何か」「なぜ起きているのか」「どう意味づければよいのか」と問い、言語化し、分析し、判断しようとする理性的方向に成立するのが外我です。
内我と外我は、本来、対立するものではありません。どちらも、自己と世界との出あいから生まれる観察主体であり、自己にとって不可欠な働きです。問題は外我そのものにあるのではありません。問題は、外我が内我を一方的に支配し、内我が直覚している直接体験を抑え込み、自己理解の中心を独占してしまうことにあります。
内我と外我の対話軸が育つとき、自己は不一致の直接体験を、単なる苦痛としてではなく、自己組織化の契機として受けとめることができます。ここに、心理社会的支援における重要な臨床的意義があります。
8 ホロニカル主体(理)の創発
ホロニカル心理学において、自己の主体性を示す重要な現象が、ホロニカル主体(理)の創発です。
ホロニカル主体(理)は、外部から押しつけられた固定的規範ではありません。また、単なる主観的な好みでもありません。ホロニカル主体(理)とは、自己と世界との不一致・一致の反復のなかで、歴史的・社会的文脈を含みながら創発される識別の理です。
自己は、自己と世界との出あいのなかで、何をどのように識別し、どの方向へ自己組織化していくのかを導く理を、主体的に発見し、創造していきます。これがホロニカル主体(理)の創発です。
たとえば、「人に迷惑をかけてはいけない」という規範を外我に内在化して生きてきた人がいるとします。その人は、長年、内我の苦しさを抑え込んできたかもしれません。しかし、支援や対話を通してその違和感を丁寧に見つめ、「人に頼ることは迷惑ではなく、関係を開くことでもある」と深く腑に落ちたとき、そこでは単なる考え方の変更以上のことが起きています。自己と世界との関係を識別する新しい理が生まれているのです。
このように、ホロニカル主体(理)は、固定的な道徳律でも、恣意的な主観でもありません。それは、自己と世界との関係のなかで、そのつど創発される生成的な識別原理です。
9 心理社会的支援への示唆
ホロニカル心理学の視点は、心理社会的支援において重要な意味をもちます。
被支援者が苦悩しているとき、それは単に個人の内面に問題があるということではありません。また、外部環境だけが一方的に問題を生み出しているということでもありません。苦悩は、自己と世界との出あいに不一致が生じ、その不一致が固定化されるなかで生起します。したがって支援とは、被支援者の内面だけを変えようとすることではありません。被支援者が生きている環世界の生成構造を理解し、自己と世界との新たな関係の自己組織化を支える営みです。
たとえば、不登校状態にある子どもに対して、単に「学校へ行くか、行かないか」という行動面だけを見るならば、その子が生きている環世界は見えにくくなります。教室、教師の視線、友人関係、朝の身体感覚、親の期待、過去の失敗体験、未来への不安などが複雑に結びつき、その子にとって学校が脅威や緊張の場として立ち顕れていることがあります。この場合、支援において重要なのは、学校復帰を一方的に目標化することではなく、その子にとって学校や家庭や人間関係がどのような意味世界として立ち顕れているのかを丁寧に理解することです。
そのために支援者に求められるのは、被支援者の外我による説明だけを聴くことではありません。また、内我の感情だけに同一化することでもありません。必要なのは、被支援者の直接体験に丁寧に寄り添いながら、内我と外我の対話軸が育つよう支えることです。
このとき、自己と世界の不一致は単なる問題ではなく、自己や世界の変容への入り口となります。心理社会的支援とは、被支援者が自己と世界との関係を新たに組織化し、より適切なホロニカル主体(理)を創発していく過程を支える実践なのです。
10 近代およびポストモダンを超えて
近代思想は、人間に理性と自由を与えました。そして、現代思想、とりわけポストモダン思想は、その近代思想の基盤であった近代的自我の限界を鋭く批判しました。
デカルト以来の「私」という主体がまずあって、その理性的な主体が世界を認識し、意味づけ、行動するという考え方に対して、ポストモダン思想は、主体とは社会、言語、権力、歴史、他者との関係のなかで構成されるものではないかと問い直しました。この指摘は重要です。
しかし、ポストモダン思想の一部、あるいはポストモダン的相対主義として理解される立場には限界もあります。それは、主体や真理や価値を相対化する力は強い一方で、人間がどのように自己を再組織化し、苦悩を契機に新しい自己へと変容し、世界との関係を結び直していくのかについて、十分な実践的方向性を示しにくい場合があることです。
「すべては構成されたものである」
「すべては文脈依存である」
「主体は言語の効果である」
「真理は権力と結びついている」
これらのポストモダン思想の指摘は、人間を固定的な主体として理解する近代的自我観を相対化するうえで重要です。しかし、それだけでは、人は生きる方向を見失うことがあります。相対化は解放をもたらす一方で、方向喪失をももたらしうるからです。
この点において、ホロニカル心理学は、近代的自我を絶対化しない一方で、自己の自由意志に基づく主体性を放棄しません。近代思想が想定したような固定的実体としての主体はありません。しかし、自己の主体は存在します。その自己は、外的世界としての社会、言語、権力の影響を受けますが、それらに尽きるものではありません。
自己は、自己と世界との出あいの不一致・一致を通して、より適切な自己を自己組織化しようとする主体的存在です。この点において、ホロニカル心理学は、近代的自我を超え、同時にポストモダン的相対主義を超える可能性をもっていると考えます。
<おわりに>
ホロニカル心理学における“こころ”とは、個人の内部に閉じた心理ではありません。それは、自己と世界が出あい、分化し、対立し、包摂されながら、一即多・多即一の関係を自己組織化していく根源的な場です。
これからの人間理解に必要なのは、近代的自我をさらに強化することでも、主体を解体することでもありません。必要なのは、自己と世界との出あいにおける直接体験を基盤に、内我と外我が対話し、自己が自己自身をより適切に自己組織化していく主体を回復することです。
この自己という主体こそが、近代的自我の限界を超え、ポストモダンの相対化を超え、現代人が自己自身を取り戻し、他者と共に生き、世界と新しい関係を結び直すための、ホロニカル心理学からの重要な提言です。
<参考文献>
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