私たちが顕在世界として経験している意識現象や物理現象は、あらかじめ固定的に存在している実体ではなく、その根源において、時空的な制約を超えた「場」から立ち顕れていると考えられます。
この「場」は、個々の出来事や存在が分化する以前の根源的次元であり、自己と世界、主体と対象、人間と自然、人間と動物といった区別がまだ明確に生じる以前の、無差別で一なる働きとして理解することができます。ホロニカル心理学の立場からすれば、私たちが現実として経験している世界は、この根源的な場から、そのつど多層多次元わたる現象世界として立ち顕れているものです。
本来、人間は、この「区別以前の場」の働きを直観的に了解していたのではないでしょうか。近代以降の人間観から見れば、かつての人間は神話的世界に生きていたと言えます。しかし、その神話的世界は、単に未発達で非合理な世界観だったわけではありません。むしろそこには、自己と世界、人間と自然、人間と動物が、いまだ完全には分断されていない関係的な知が息づいていたと考えられます。
神話的世界においては、中沢新一が『熊から王へ』で指摘するように、人間と動物の関係は、現代社会に見られるような圧倒的な非対称性によって捉えられていたのではありません。そこでは、人間と動物は固定的に分断された存在ではなく、相互に変容可能な連続性のうちに理解されていました。
人間と動物は、それぞれ別個に閉じた存在ではなく、同じ根源的な場から立ち顕れる異なる諸相でした。したがって、両者のあいだには、互いに移行しうる関係性が想定されていたのです。このような世界理解においては、人間は動物を一方的に支配し、利用する主体としてのみ存在していたのではありません。動物もまた、人間と同じ場に属する存在であり、人間に対して意味をもって現れる他者でした。
そのため、動物の命をいただくことには、単なる消費や所有を超えた深い畏敬の念が伴っていたと考えられます。そこには、人間が動物の上位に立つという一方向的な関係ではなく、命をめぐる対称的関係が保たれていました。食べる者と食べられる者、狩る者と狩られる者の関係は、単なる力の優劣ではなく、同じ場において生起する生命の循環として受け止められていたのです。
そもそも、自然と人間の関係そのものが、現代人がしばしば前提としているような対立的関係ではありませんでした。自然は人間の外部にある対象ではなく、人間自身もまた自然の一部として、自然とともに立ち顕れる存在でした。人間が自然を見る以前に、人間もまた自然のうちにあり、自然との関係のなかで自己を形成していたのです。
ホロニカル心理学の立場から見れば、神話的世界とは、未発達な認識の残滓ではありません。それは、自己と世界、人間と自然、人間と動物が、分断以前の場において相互に包み包まれる関係にあったことを示す、重要な人間理解の様式であったと言えます。
近代的自我は、自己と世界を分け、主体と対象を分け、人間と自然を分けることによって、分析的で合理的な知を発展させてきました。その意義は否定できません。しかし同時に、その分断が過度に進むと、人間は自然を外部化し、動物を利用対象化し、自己を世界から切り離された孤立した存在として理解するようになります。
その意味で、神話的世界に見られる人間・動物・自然の連続性は、現代において再評価される必要があります。それは近代以前への単純な回帰ではありません。むしろ、近代的な分化を経たうえで、自己と世界の根源的なつながりをあらためて俯瞰し直すことです。
ホロニカル心理学は、このような視点から、人間を世界から切り離された個体としてではなく、場において世界とともに立ち顕れる存在として理解します。自己とは、世界と対立する閉じた主体ではなく、世界との出あいのなかで、そのつど生成される関係的存在です。
したがって、神話的世界が示しているのは、単なる過去の世界観ではなく、現代人が失いつつある「場とのつながり」の感覚です。そこには、人間が自然や動物とともに生きるための、根源的な倫理の可能性が含まれています。
<参考文献>
中沢新一(2006)『熊から王へ:カイエ・ソバージュⅡ』.講談社.