
自由競争と自己責任を過度に強調する資本主義社会では、経済的な富や社会的な機会が、ごく一部の人々に集中する傾向があります。現代世界における富の極端な集中は、個人の努力だけでは説明できず、税制、教育、雇用、相続、政治参加などの制度的条件と深く関係しています。実際、世界の富の約4分の3を上位10%が所有するという著しい偏りが報告されています(World Inequality Report 2026)。
しかし、競争の勝者が、現在の地位を自らの能力と努力だけによって獲得したと思い込むとき、成功を可能にした社会的条件や、他者から受けてきた支えは見えにくくなります。そこには、「成功したのは努力したからであり、成功できないのは努力が足りないからだ」という自己責任の神話が生まれます。この神話は、勝者には驕りを生じさせる一方で、競争から取り残されたと感じる人々には、屈辱感や自己否定をもたらすことがあります。
こうした不均衡が是正されにくい背景には、不利益を被っている人々自身が、「自分の努力が足りなかった」という説明を受け入れざるを得ない自己責任論の内在化を促進する社会構造があります。そこで行き場を失った憤怒は、格差を生み出す制度や権力への問いへ向かわず、さらに弱い立場に置かれた人々やマイノリティへの排斥のエネルギーとして転化されることがあります。
こうして、格差によって傷つけられた人が、別の誰かを傷つける側へ回るという連鎖が生まれ、格差を生み出した構造そのものが温存されていきます。しかし、この憤怒の転化も、その人の性格や品格だけに還元すべきものではありません。権力に向かって異議を申し立てることを困難にし、怒りをより弱い立場の人へ向かわせる「社会的な場」が生成した、関係的な現象として捉える必要があります。
問題は、自由競争そのものや個人の努力を否定することではありません。努力や能力を、社会的地位や人間の価値を決定する唯一の尺度として絶対化することです。
能力主義は、近代社会において、世襲や血筋によって身分が固定される社会から人々を解放する評価原理の一つとなりました。しかし、それが自己責任論と結びつき、家庭環境、教育機会、地域格差、障害、病気、差別などの社会的条件を見えなくするとき、能力主義は新たな階層化を正当化する思想へと反転します。
この構造は、自由競争を掲げる資本主義社会だけに生じるものではありません。国家権力が強く集中した統治体制にも、制度や理念の違いを超えて、形を変えながら相似的な関係が現れることがあります。近年、権威主義的な統治の拡大や、政治的権利、表現の自由、市民的自由の後退が世界的に報告されています。
政治権力が一部に集中し、国家機関、企業、メディア、市民社会への統制が強まると、異なる意見や価値観を表明することは次第に困難になります。そこでは、市場競争上の評価に加えて、権力の中枢との近さや、国家・統治組織の掲げる目標への適合性が、社会的地位や資源の配分を左右しやすくなります。
一方、それとは異なる意見や価値観は、秩序を乱すもの、国家の発展を妨げるもの、あるいは愛国心を欠くものとして周縁化されやすくなります。経済・政治体制や思想は異なっていても、権力と資源が一部に集中し、その状態が正当化され、異議を唱える声が封じられるという点では、相似的な構造が形成されるのです。
したがって、問題の本質は、資本主義か社会主義かといった体制の名称や、掲げられた理念だけにあるのではなく、経済力、能力、国家、民族、政党、宗教など、何らかの一つの価値が絶対化され、ほかのすべてを従属させる一元的な場が形成されることにあります。
この一元化が国威発揚と結びつくと、多様性への寛容さや、弱い立場に置かれた人々・マイノリティを包摂する力が、知らず知らずのうちに社会から失われていきます。一部の人々の威勢のよい声や威圧的な態度が、あたかも全体の意思であるかのように場を支配し、異なる声を表明すること自体が困難になります。
そのような場では、本来、不正や抑圧に対する義憤として立ち上がりうる感情が、ごく自然な自己主張として表現されないまま封じ込められてしまいます。行き場を失った憤怒のエネルギーは自己否定へと反転し、心理的・身体的なさまざまな反応として立ち顕れることがあります。
たとえ義憤に基づいて自己主張がなされたとしても、その内容や背景には耳が傾けられず、声の大きさや感情的な表現だけが問題視されることがあります。こうして論点がすり替えられ、場の矛盾を訴える声が「感情的な個人の問題」へと還元され、事実上無視されていきます。
ホロニカル心理学の立場から見れば、個人の苦悩と社会の矛盾は切り離すことができません。一人の人に立ち顕れる苦悩には、その人を取り巻く家族、組織、地域、制度、歴史、文化など、多層多次元にわたる場の矛盾が包摂されています。同時に、その人の声や行為もまた、周囲との関係を変え、場を新たに生成する可能性をもっています。
大切なのは、一つの正しさのもとへ人々を均質化することではありません。生きづらさを共有し、問題への対応を共創し、それぞれの能力や資源に応じて負担を分かち合い、必要に応じて支えを受けられる、民主的で相互包摂的な場をつくることです。
ホロニカルな統合とは、「一」が「多」を支配する一元化ではありません。多様な一人ひとりが全体を支え、全体がまた一人ひとりを包摂する「一即多・多即一」の関係です。そのような場が立ち上がるとき、義憤は自己や他者を破壊する怒りではなく、不均衡な関係を問い直し、誰もが少しでも生きやすい社会をともに創造する力へと変わっていくのではないでしょうか。