自己と世界を疎外する喧噪語

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現代社会をけたたましく飛び交う情報は、喧噪語といえます。喧噪語は、何かを体験する前に人に情報を与えることによって、人をあたかもわかったような気にさせてしまいます。

ある少年は語りました。「僕はインターネットなどを通じて、あふれる情報に触れているうちに、何もかも知ってわかったような気になっていた。それで、なんか人生が終わってしまったような気になっていた。でも、よくよく考えてみれば、僕は何も経験していない」と。そう、何かを直接体験したり直接経験することがないままにわかった気になるとは、生きているという実感すら奪いとられることです。私という主体が自己と世界から疎外されることといえます。

しかしながら、実感なき情報は、ただの空想的観念にすぎません。決してなまなましい現実とはなり得ません。自己体験になんら結びつくこともない知識は人の助けにはならないといえます。

喧噪語に心奪われすぎては、実感なき知識や知的情報に執着し、とらわれながら人生をただ受動的に過ごすことになります。そうなると人生は、空虚で無意味なものとなります。自己も世界もただの無機質に動きつづける機械的な物質的世界となります。自己も世界も生命なき物となってしまいます。煩悩すら自己や世界のものとならず、知的な理解対象の物となりかねないのです。

心理・社会的支援には、そうした主体の自己と世界からの疎外感を抱えて、多くの人が自己と世界と主体の一致の実感を求めてやってきているといえます。