自己の個性化の歩みについて語る時、原初の段階から自律した個としての自己があると想定することには慎重であるべきです。というのは、そもそも自己というものが個体的な実体として、最初から存在しているかどうかすら実は怪しいからです。
人間の場合、自己はへその緒を断ち切られた時から、確かにその身体的自己には物理的な有機体としての統合的同一作用が働いていると考えられます。そうした観点に立脚すれば、確かにAという身体的自己は、A以外の万物から個物として識別・区分することができます。しかし、個体としての身体的自己AもA自身だけで有機体としての身体的自己を維持することはできません。決して自律した存在とはいえません。また生まれた時から、いろいろな栄養や保護を与えられて、身体的自己にとって不必要なものを排出することによって、はじめて生き延びることができます。そのことは、身体的自己Aは、A以外との関係性の中でしかAとして生き延びることができないことを意味しています。AはA以外の存在があって、はじめてAといえるのです。
また意識の面から考えても、原初の自己にとって産み出された世界との関係は、自己と世界の識別など、曖昧で混沌としていると考えられます。原初の自己は、自己と世界を識別することも、そうした存在があるということすら、理解できていないと考えられるのです。
原初の自己にとって自己と世界の関係は、瞬間・瞬間、不一致と一致が絶え間なく非連続的に展開すると考えられます。比喩的に表現すれば、自己と世界の一致の瞬間には、原初の自己は、あたかも天国のような快感の世界に没入し、自己と世界の不一致の瞬間には、あたかも地獄のような不快感の世界に没入していると想定されるのです。しかもこうした原初の直接体験は、自己自身の記憶に深く刻み込まれていくと考えられます。
自己の個性化の歩みとは、実は、誕生時点から死に至るまで、ずっと自己と世界の関係性をめぐって展開すると考えられるのです。自己にとって世界とは、自ら産み出し、死に追いやるものです。こうした世界という人生の場生成消滅の舞台を忘却した個性化の議論は、個性化の生々しい実態から離れてしまうと考えられるのです。個性化とは、そもそも自己とは何かという問いを含むものでもなくてはならないのです。