不一致への対応

玄宮園(彦根城)

共感への幻想的理想を強く抱く人ほど、他者や社会との間の共感不全や不一致に耐え難いという現象が起きている感があります。しかも、その中には、心理社会的支援者も沢山含まれます。

心理社会的支援の場では、カウンセリング・マインドの浸透とともに、被支援者も支援者も無自覚のうちに「共感」を暗黙の理想としてきています。

被支援者は、傾聴・共感し続けてくれるカウンセラーに一方的に話を続け、支援者は、ひたすら受容的傾聴によって支持・共感することに徹しようとします。しかしながらこうした会話は、案外一方通行的なコミュニケーションとなり、双方的対話という面が欠如してしまいがちです。対話や相互のやりとりのなき会話の理想化は、ますます一人よがりな会話を助長しがちです。

それ以上にやっかいなことは、共感関係を理想とする支援者が、支援の場を離れて人と普通の会話をするときにも、支援者自身が自分の思いへの共感を他者に強く求めるようになってしまうことです。その結果、支援者自身が「話しを聞いてくれない」「わかってくれない」と、ちょっとした相手との意見の相違に、とても傷つきやすくなり、被害的になる傾向をもつようになってしまうのです。

共感幻想の影の問題を乗り超えるためには、対話する者同士が、不一致と一致の繰り返しの「不確実性に耐えられる力」、不一致と一致の行ったり・来たりを「俯瞰できる力」、不一致と一致の矛盾に「遊べる力」を養いながら、不一致を新たな関係の創発のための創造的契機とする姿勢をもつことが必要になります。不一致の関係も、しっかりと重視する姿勢です。

この時、不一致に基づく適切な自己主張と攻撃的自己主張の区別が大切です。特に適切な自己主張同士という信念のぶつかり合いによる不一致の場合は、不一致の悲哀に耐えながらも、意見の対立を恐れ過ぎてはならないといえます。いずれからが、その悲哀に耐えられず、意見の対立を恐れ過ぎた途端、双方とも誇大的で万能的な憤怒に圧倒され、双方の溝はさらに深まることになるからです。

価値の多元化社会とは、信念や常識の差異による不一致だらけの社会になることも意味しています。だからこそ、価値の多元化社会を生き延びるためには、価値の多元化に対する対処能力を身につける必要がでてきたのです。これまでの常識が通用しない社会で、いかに生きるかの能力といえます。

その第一原則は、わかり合うことの難しさの了解や限界認識を持つことと思われます。わかり合ったと思っても、再びすぐに不一致となる現実を受け入れることです。わかり合える関係を求めることは大切ですが、それは、そんなに簡単ではないことを、それ以上に自覚することが大切なのです。

自己と他者の出あいの不一致と一致の繰り返しの中で、一瞬の一致はあり得ても、即不一致になる悲哀を受け入れる力です。

また、お互いの思いは、その深淵において一致しているのであろう(あるいは、いずれ一致するのだろう)という信念が成立している限りにおいて、不一致は恐れる必要はなく、むしろ差異を尊重する姿勢が大切になるのです。

内的世界と外的世界の一致を求める作業は、苦行であるとともに創造的喜びでもあるのです。

たとえ、個人的レベルにおいては、「今・ここ」の一瞬・一瞬において、自己と世界の関係が、一即多、多即一となり、自己と世界の一致を実感・自覚できたとしても、時間的歴史的存在としての社会的自己レベルでは、自己と世界(社会)の関係が、一即多、多即一の関係が破れ、多同士の信念が対立し闘争を繰り返すことを避けることができないのです。個人レベルの平穏ではなく、平和な社会を求める限り、相当な対話的努力の積み重ねが必要となるのです。だからこそ、社会は自己と世界が一致する信念(ホロニカル主体:理)を求めて、新たな歴史的文化を形成し続けているといえるのです。