外我と内我(6):志向性の差異としての外と内

10月1日は日本酒の日

現実主体の意識が外的世界に向った瞬間、外我の機能が自己に布置し、自己は自己自身が世界に従属し世界の一部分を構成する名も無き一般的な存在であることを意識化します。それでもなお外我が外的世界と一体化を希求し、観察主体でもある外我が無我となって観察対象としての外的世界と限りなく一体化していくと、外我は自ら非自己化していた世界と無境界となり、自己超越的な存在としての自己に目覚めることになります。

それに対して自己が内的世界に向かえば、内我の機能が自己に布置し、自己が世界にたった一度限りの命をもったかけがえなき特殊な存在であることを直覚します。それでもなお内我が内的世界との一体化を希求し、観察主体としての内我が無我となり観察対象としての直接体験が限りなく一体化していくと、内我は自己と世界の出あいの直接体験のうちに無境界となり、かけがえなき自己が自己超越的存在でもあることを実感することになります。

しかしながら外我が、ある特定の対象ばかりに執着したり、内我が自己と世界の不一致のある出来事ばかりに拘泥すると自己は統合化への希求を失い、自己制御不能な世界に翻弄されることになります。そうした時には、破壊を含む暴力的衝動が布置しやすくなります。自己(部分)と全体(世界)のホロニカル的関係を失った断片的自己が暴走をはじめてしまいます。