“こころ”とは(32):非局在的な場

ホロニカル心理学では、“こころ”は、意識現象物理現象を識別する源でありながら、“こころ”の全体そのものは、非局在的なのような現象のため、実感・自覚する以外には、観察不可能な叡智的世界のようなものと捉えています。

こうして語りながらも言葉による表現には限界があり、数学的な表記(0=∞)で表現するか、あるいは芸術家や宗教家が表現しようとする「何か」と理解するしかないものといえます。結局、究極的には語ることを断念し、誰もが押し黙ってじっくりと感じとるしかないものといえます。しかし、確実に、“こころ”は、感じるもの・感じとられるものとして「実在している」といえます。

ただし、「ある」といっても “こころ”は、実感・自覚されるものとして「ある」と捉えています。“こころ”は、働きとして「ある」のです。

“こころ”は、“こころ”の現象のうち何かを観察しようとすれば、“こころ”はたちどころに局在的なある現象(ある認定、ある感情、ある意志、ある神経・生理学的現象・・・)となって識別されます。しかし、こうして局在的なある現象として立ち顕れる“こころ”は、“こころ”の多様性を包含したある“こころ”の面であったとしても、観察された“こころ”が、“こころ”の全体ではないことに変わりがありません。もしも私たちが、観察し、意識された結果だけをもって、自分の“こころ”だと思い込むと、あまりに限定された観察結果だけを、自分の“こころ”だと誤認することになります。

やはり“こころ”は感じるものとして確実にありながら、どこまでも言詮不及のものといえます。