生きている場所

「私がスイッチを押してテレビを観る」という出来事は、私による一方的な行為ではないと思われます。

まずは、私はテレビを観る前に、テレビという物体が、ただの物理的な物ではなく、人に向かって映像、音声や文字でもって情報を伝達してくれる道具として歴史的社会的に作られたものであるという知識をあらかじめ持っていました。また、私はテレビが視界に入るまでは、テレビを観る意志はなかったのですが、たまさかテレビが私の視界に入った途端、テレビが私のニュースを見たいという気持ちを誘発し、私がテレビのスイッチを入れたという展開がありました。こうしたプロセスを振り返るとき、私とテレビとの間には、双方的な情報のやりとりがあったといえます。

このようにして考えてくると、今私が生きているは、歴史的社会的に創られてきた道具によって囲まれた世界であって、ただの物理的環境ではないといえます。したがって、たった今、私の周りをせわしくなく飛ぶうっとうしい蚊にとっては、まったく私とは異なる環境世界に生きていると考えられます。私には私の、蚊には蚊の、あなたにはあなたの現象世界が、私、蚊、あなたを中心にして不断に創られていると考えられるのです。

私の今の生きている場所とは、私と過去の人々の思いや歴史・文化や、今・現在に生ている人々の様々な気分や思いが交錯しあい、人や社会の複雑な思いなど、森羅万象の魑魅魍魎の棲まう世界といえるのです。

私たちの自己は、こうした多層多次元にわたる重々無尽に意味づけられた場所的世界を絶えず自己自身に映し取り、映しとった内容を直覚的に統一しながら、自己及び世界に積極的に関与しながら生きているといえるのです。