小さな意味のある物語の創成

行政的な信頼性、法律論的正論性や科学的専門性による知識をバックボーンとし、「あなたのためです」という力強い言説による心理社会的支援が社会に浸透してきたように思われます。こうして人生の重大な分岐点となる処置や処遇に関して、半ば公認化された専門的知識によって被支援者はアセスメントされ、新たな生き方の処方が策定され、その方針についてマニュアル化されたガイドラインによって説明を受け、そして最後に同意を求められます。

しかしレディメイド化された支援では、被支援者の抱えていた生きづらさは専門的な言葉に変換され、被支援者は自分の生きづらさの体験を自分の言葉で語り、そのニーズに沿った支援を受ることができにくくなります。しかもレディメイド化された支援の浸透は、個々の事例の特殊性に応じたオーダーメイド的な支援を萎縮させてきています。

役所的な権威、法律論的正論や専門性をバックボーンとした支援の影の面は、パターナリズムです。パーターナリズム的支援は、支援者の知を前に、被支援者は自分の無知を思い知らされ、疑問、違和感、抵抗感や反抗心すら自ら抑圧していってしまいます。こうして被支援者は、主体感を伴った解放感を味わう機会を奪われ、ますます無力化し、生きる意欲を失い、人生の主人公の立場すら失っていきます。その上、もし支援者が自らのパターナリズ性に無頓着だったり、無視をすると、被支援者は一層支援者に対して受動的になり沈黙を余儀なくされていきます。

たとえ、被支援者が、疑問、違和感、抵抗や反抗心を表明したとしても、たちまちのうちにパターナリズムの影に気づかない支援者たちによって、○○障害、○○病、クレーマー、反社会的言動として扱われてしまいます。こうして抵抗の声を失っていく人が、世界に向かっての正当な憤怒を表明する気すら失い、人生の孤立の川の一線を越えてしまうと、自己及び世界の存在の意味を失って破壊的衝動に圧倒される人すら創り出します。

しかしパターナリズム的支援に疑問を抱きだした被支援者と支援者も当然のごとく沢山でてきています。こうした人たちは、これまでの被支援者・支援者の支配的関係の影の問題を軽く超脱し、ある生きづらさをもたらしている具体的問題を共有しながら、開かれた対話の中で、達成見込みのある解決策を模索しはじめていくという共苦共歓の共創の場を構築しはじめています。共創の場では、Aさん、Bさん、Cさん・・・との共創の中で、まったく新しい人生の物語が創成され、その場に参画した人々に自利利他の感動をもたらしています。

こうした小さな物語の創成ならば、ローカルな場所で、実はいくらでも散見されだしています。そして、そうした場所では、決して、人はひとりではないという現代版の新しいお互い様感覚が生まれだしているのです。

しかしながら残念ながら、こうした意味のある場末の「小さな物語」は、まだまだ「大きな物語」による変容を志向する社会の中央部にいる権威者、法律家、専門家には、あまりに些末な出来事なのか、なかなか目に留まらないようです。