外我と内我(9):外的統合と内的統合

内我は、非連続的体験である直接体験の断片的直覚を同一の身体的自己における体験として内的に統合する作用といえます。

したがって、もしも内我が統合性を失うと世界は、知覚毎に異なる非連続的な断片的世界となります。

内我が直接体験に対して、何に意識の対象を向けるかによって直覚される世界は微妙に異なってきます。例えば、内我が視覚チャンネルを優位にして見ることに集中すれば、世界はより鮮やかに見えてきます。内我が聴覚チャンネルを優位にして音に耳を澄ませば、世界は豊かな音にあふれてきます。内我が触覚を優位にして足の裏に集中すれば、足の裏がうずいてきます。内我が固有感覚を優位にしてある身体感覚の違和感に焦点化すれば、呼吸の乱れや頭の微かな痛みの波に気づいたりします。

そして内我は、こうしたそれぞれの知覚をさらに同一の身体的自己上の出来事として内的に統合し再構成する作用も持っています。

内我の意識の内的志向性に対して、外我の意識は外的志向性を持ちます。外我は外的志向性によって、自己自身や外的世界における現象の中から、外我自身が内在化する識別基準と体系化の論理によって、何かを識別し、認識し、それを再構成する作用といえます。

知覚が、客観的意義をもつという考え方があります。自己は知覚を通して、世界を鏡のように映しとっているという素朴な考えによります。しかし知覚が世界を写すというならば、内我が直覚する世界が客観的世界といわなければなりません。しかし通常、私たちは、内面的に統合された世界を客観的世界とは考えていません。また内我を切り離した外我の内在する識別基準(ホロニカル主体:理)によって識別され再構成された世界も客観的世界とはいえません。再構成された世界は、外我の思惟によって作り出された世界であって知覚を超えます。しかしそうした客観性とは、物理学や数学によって表現される世界が、私たちが直覚している世界ではないのと同じです。数学で表現される客観性とは、あくまで知的客観性を持つものであって、私たちが日々体験している実在する世界そのものとは異なります。

ホロニカル心理学では、自己にとっては、直接体験そのものが実在する世界と考えています。直接体験そのものがかけがえなき特殊な出来事でありながら、しかし他方では、一般性をもつ客観的世界と考えています。しかし、自己は直接体験に直に触れていながらも、それを知覚したり意識した途端、忽然と主観的な世界と客観的な世界に切断することを避けられず、私たちの経験世界は、実在する客観的世界を常に取り逃してしまっていると考えています。

そこでホロニカル心理学では、客観的世界は、我が無我となった時の直接体験(ホロニカル体験)に含まれているものと考え、直接体験との自己照合を手がかり与えられるものと考えます。そして、それは、まず内我と外我の絶え間のない対話のうちに、少しでも内我と外我が一致する方向に発見・創造されると考えます。またその方向に適切な自己または世界の自己組織化を促進することが、より生きやすい人生の道の発見・創造につながると考えます。

内我と外我の対話による自己組織化というと、いかにも内的世界の出来事だけであるかの錯覚をもたらしますが、そうではありません。直接体験をめぐっての適切な内我と外我の対話とは、対話が双方的なものである限り、観察対象だった内我が、今度は観察主体となり、観察主体だった外我が観察対象になることです。また外我と内我の対話によって、直接体験との一致をより高める生き方の発見・創造(より適切なホロニカル主体:理)とは、自己と世界の不一致・一致の直接体験において、自己と世界の一致の道を発見・創造(ホロニカル主体:理)することにほかなりません。この時、自己と世界という世界を、すべて物質に置き換えるならば、より適切な科学的一般法則の発見であり、他者に置き換えるならば、より適切な愛の創造であり、社会に置き換えるならば、より適切な文化の創造にほかならないと考えています。