外我優位の社会の問題

物事を計量化・数量化・統計化してから物事を客観的に判断しようとする背景には、科学信仰があり、科学による技術革新が人々を幸せにすると言う思想があると考えられます。こうした思想は、合理主義、功利主義、機能主義、普遍主義と深く結びついています。西洋の理性による思考の普遍性を主張する啓蒙思想がその代表例です。

しかし啓蒙思想は、西洋中心の歴史が世界のどこでも通用すると錯覚し、西洋の科学主義的パラダイムが他の国や民族よりも先進的と見なしがちです。

しかも科学技術の価値は、貨幣価値に変換され、資本主義経済社会が先進国であるという政治思想を作り出していきます。しかもこうした啓蒙をした上で、いかなる思想に基づく社会を選択するかは、大多数による民主的選択によることが、もっとも理性的であると主張します。

しかし、科学技術、民主主義、自由主義に普遍的価値を置くと言う思想は、ホロニカル心理学的には、こうした観点に価値を置く社会によって外発的に刺激されたホロニカル主体(理)外我が内在化した外我優位の生き方といえます。その結果、外我は内我を制御・コントロールすることに価値を置く生き方となります。

しかしながら外我優位の生き方には弊害が伴います。それは内我が抱く非合理性、感性、肉体性、固有性、気質性や風土や自然などを否定・疎外しがちな生き方になります。その結果は、心の病の増加、自然破壊・自然災害の加速化、核戦争の脅威、貧富の差の拡大、先進国と後進国の利害対立、民族紛争の激化、反民主主義、価値の多様化・多元化に伴う社会のアノミー化、神仏の否定によるニヒリズムの浸透、全体主義の復活など、実に多岐に渡ります。

こうした社会の現実を直視するとき、ホロニカル心理学的には、外我と内我の対話軸の中により生きやすいホロニカル主体(理)を創発していく必要が社会に求められているように思われるのです。