錯覚と自覚の違い

「思うと、そうなる」と感じるときが、人にはあります。当の本人の体感としては、実際、「思う」と、そのように世界は微妙に変幻自在に変容するため、それが真実だと錯覚してしまいます。

特に、苦脳からの脱出を希求するとき、そのように感じるときがあります。が、しかし、それはやはり錯覚であり、自己が自己自身が生き延びるために創り出している幻想的世界です。こうした幻想的世界を創りだしたくなるほどの苦悩に苛まれたときは、哲学者西田幾多郎が語るように、「物自身になって物を見る」と効果的です。すると心的インフレーションに陥っていた“こころ”は次第に鎮静化し、穏やかな世界がゆっくり蘇り、やがて「今・ここ」のあるがままの現実世界に触れはじめます。このとき、と言う意識は、無我となっています。我が全てをわかったように思うのは錯覚で、むしろ我が無我のとき、自己が自己自身を写し自己と世界が相対立しながら同時に現成していることを自覚することが可能となります。ただ修行を積み重ねないと、こうした主客合一のホロニカル体験は瞬時に終わってしまいます。