意識とは何を意味するのか

何かを意識するだけならば、意識された対象について何か変化を加えることはありません。

色とか音を識別判断する前段階の何かについて意識するだけの直接体験の段階では、観察対象の性質に対して何か新しい性質を加えるような識別・判断行為はありません。赤とか青とか以外に何か別の意識があるわけではない以上、赤とか青とか判断する前段階では、赤とか青に関する直接体験を意識していると考えられます。また、赤や青という感覚をもたらす背景に、光学的な物理的現象の働きがあると意識したとしても、我(外我)による思惟による抽象的判断であり直接体験そのものとはいえません。

直接体験そのものを直覚することと、直接体験を観察対象として識別・判断する意識作用とは、区別される必要があるのです。空間や時間などの物理現象も、我による内我の時々刻々の直接体験の変容に対する外我による体系的な統一的解釈と考えられるのです。このように考究するとき、通常、私たちが意識している自己や世界とは、実は直接体験そのものではなく、観察主体が自己及び世界を観察対象として内省的に再構成したものといえます。

現象そのものと、観察され観察主体によって意識された観察結果は、必ずしも一致するとは限らないのです。

意識化された観察対象とは、観察主体の統覚作用によって統一された体系ですが、すべてを統一する作用そのものの働きは観察対象とはなりえません。そうした働きは直観するしかなく、観察対象とすることができず、むしろすべてを統一する働きそのものが意識といえるのです。

西洋では、こうした統覚作用の結合点に、個我(現実主体)を発見してきました。神を中心とした中世時代から近代への移行期のルネッサンス期です。「近代的個我(自我)の発見」のエポックです。しかし意識的な意思決定の権利主体としての個人的我に目覚めたとはいえ、意識の統覚作用の中心に我を発見したのであり、我自身が統覚的能力を持っているのでないとホロニカル心理学では考えています。自己と世界との出あいの直接体験そのものに意識の分化発展と統合の働きがあると考えているのです。

我の統一作用は、我に統一作用をもたらすさらなる統一作用によるのです。そうした働きがなければ、我による統一意識が誇大的万能的な独我論的様相を帯びることを避けられません。しかしそれでは客観的真理の探究から離れてしまいます。

意識作用においては、思考、知覚、感覚、情緒などに識別される意識に対して、それらを包摂するさらに全体的な統一力をもった統覚的意識が考えられるのです。思考、知覚、感覚、情緒や気分などの様々な意識現象は、全体的統一力によって統合されているのです。ホロニカル心理学では、そうした自ら自発自展するものを統一する働きを「IT(それ)」としています。「IT(それ)」は、本来、概念化不可能な働きといえます。西洋の理性的なニュアンスの強い意識的個我(自我)をさらに包摂する概念が「IT(それ)」です。

しかしながら意識現象は、内的体験の統一力の中心点に一般的には我(個我、現実主体)の働きが布置しやすいといえます。この時は、我(現実主体)自身が内在しているホロニカル主体(理)による識別基準の判断の影響を避けることができません。その結果、ホロニカル主体(理)の価値関係を離れて考えることができません。

意識をこのように考える観点から、意識されなかったものが意識されるとは、意識されなかった直接体験が「IT(それ)」による統一作用を通じて、観察主体によって意識されることを意味すると考えられます。