“こころ”とは(48):物になって見、物になって行ふ

私自身の内側を実感するように、私の意識から離れた物を内側から実感し体験することはできません。

しかし外界にある物を観察するとき、できるだけ私という意識を滅却して、「物になって見、物になって行ふ」(西田幾多郎の言葉)を試みることができます。するとなかなか難しいですが、自己の極限において我を忘れて自己自身になった瞬間(我の意識が無となった刹那)、自己は、自己と世界が時々刻々出あいの直接体験そのものとなります。

自己の極限とは、自己と世界の区分もなき場所から、自己も世界もそこから生まれ出てくる場所のことです。その場所とは、“こころ”であり、絶対無(空)と考えられます。