ホロニカルな場づくり

晴れと曇りの境

ある人の苦悩を誰かが理解するとは、誰かが誰かに対して一方的に理解するような行為ではなく、相互理解において、はじめて可能になると考えられます。

ある人の苦悩をある人が理解するとは、同じ苦悩について共振することといえるのです。

ある人の苦悩の理解とは、ただその人の苦悩を知的に他の人が理解することではなく、ある人の抱えている苦悩を共有する新たな関係が生まれることを意味するのです。

ある人の苦悩に共感するということはある人の苦悩に対して、誰かが、あたかも神様か、仏様か、観音様か、マリア様でもあるかのように、なんでも受け入れることだとするならば、それは誤解であり、幻想です。

凡人が、たとえ神様、仏様、観音様、マリア様のようになりたいと思っていたとしても、凡人は凡人であり、神様・仏様、観音様・マリア様のようには振る舞えません。

しかしながら、凡人でもできることがあります。ある人の抱えている苦悩を媒介にして、その苦悩を共有することのできるを構築し、その苦悩について、共にどのように解決していったらよいか、一緒に解決策を模索する関係を構築することです。お互いが努力すればそうした関係を構築することは不可能ではありません。

ある人の抱える苦悩を解決することを期待されている専門家とは、専門性の知識を豊富に獲得すること以上に、もっとも安全で安心して自由無礙に苦悩に俯瞰的に向き合える関係をつくりあげることのできる人という意味でなければなりません。またそうした信頼の場づくりに務める社会的倫理と責任を背負った人たちという意味でなければなりません。

理念、思想、信条、宗教などが、ますます多様化・多元化し、とかく対立しがちになる現代社会にあっては、ある人の苦悩を共有可能な苦悩として、共振しあい、共により生き易い道を発見・創造しようとすることを可能とする場づくりが喫緊の課題となっているのです。

それぞれの人が哲学者パスカル(1623 – 1662)の言葉にあるように「周辺なくして到る所が中心となる無限の球の中心」として生きながら、それぞれがお互いの苦悩をお互いの自己に映し合い、お互いを包摂しあい、自由無礙の視点から問題解決に協力し合っていくことを可能とする場づくりが大切になってきています。そんな場所が、苦悩する人の生きる適切な居場所となると考えられるのです。

居場所とは、どこかにあるようなものではなく、創られていくものです。その意味では、苦悩を媒介とすれば、どこにでもそうした場を創ることができる筈です。

ある人の抱える苦悩は、常に他の人の“こころ”の中にもホロニカル的に包摂されていると考えられます。したがって、ある人の苦悩を人ごととして排除する社会とは、自らの一部を排除する生きづらさを産みだします。そうした社会より、むしろ苦悩を共有することのできる社会の方が、より生き易い社会づくりにつながると考えられるのです。

イスラム教の世界に住む人であろうと、キリスト教の世界に住む人であろうと、仏教の世界に住む人であろうと、○○世界に住む人であろうと、同じ人間としての苦悩を抱えあっている関係にあるといえます。ただし、苦悩を共有するとは知的に理解することではありません。知的に理解しようとすると必ず言語が介在します。言語は文化の制限を受けます。文化が介在すると、同じ苦悩でも解釈と解決策も異なってきてしまいます。言語が介在すると、絶望感や悲哀感など、言葉にする以前ならば同じ現象だったといえるものが、あたかもまったく異なる現象であるかのように変化してしまうのです。

苦悩を理解する上で大切なこととは、苦悩の直接体験をそのまま直観的に共有しあうことです。苦悩を言葉にすることの限界を、お互い了解しあっていることといえます。

もし苦悩を言葉にして対立してしまった時には、言葉の生まれてくる淵源に立ち戻ることによって、相互理解が深まるような関係を再構築することです。ある人の苦悩を理解するということは、頭で理解することではなく、言語には簡単にできない生の体験として、感じあい、共振することといえるのです。