共時現象:時間の本質を考える

ホロニカル心理学では、実在や時空間について、次のような仮説をもっています。

「実在する世界とは、瞬間・瞬間のことであり、過去を含み未来が開かれてくる創造不断(※)の『今・この瞬間』のことと考えられる」

時計に象徴されるような過去・現在・未来という直線的な時間は、人間が歴史的に創り出してきた知的な概念と考えられます。しかし私たちは、時計による時間の刻みの感覚とは別の「時の流れ」を感じています。そうした「時の流れ」が、無機質な時計とは異なる生き生きとした生命現象を実感させています。二度と同じ出来事が起きえない瞬間・瞬間のかけがえなき生成生滅の無常が、「時の流れ」の感覚を私たちにもたらしていると思われます。道元禅師の正法現蔵の中で説いた「有時(うじ)」です。

瞬間・瞬間の差異によってもたらされる「時」の感覚は、正確に時を刻む時計の時間感覚とは異なり、状況や場によって大きな差があります。時計では同じ1時間の経過であっても、「あっという間にすぎた1時間」と、「遅々として進まなかった1時間」といった違いは誰もが感じいるところです。

瞬間・瞬間しかないことに対する実感・自覚は、一切合切が同時共時的に共振しているという全一体験を自ずともたらします。自己を包摂する生成生滅の無常世界が実在する世界でもあるという覚醒です。

実在する世界が共時的全世界であることの実感・自覚は、非連続的に連続する次の瞬間の予測の確率を高めることができます。がしかし、瞬間と瞬間が非連続的な関係にあるため確率論的予測しかできません。決定された過去については、因果論的に説明することができても、未来については、予測不可能性が必ず伴います。しかし予測不可能だからこそ、「決定された過去を含む現在」と「未来を予測する現在」の間の微妙な差異を手がかりに、できるだけ自己と世界が一致する方向に、次の行動を自己決定することが生存をかけるテーマになると考えられます。

特に人間に至っては、自己と世界の不一致は、自己のみならず新たな世界を創りだす契機にもなってきました。

個物としての自己は、必ず場所的存在であり、その意味では場所的自己と言い換えられます。世界とは、場所的自己のある場のことです。そして場所的自己は、場において存在し、場なき自己は考え出された自己であって実在しません。さて、場所的自己でもある人間は、(世界)に対して受動的存在ではなく、能動的存在でもあります。しかし、人間の場合、動植物と異なり、場(世界)に能動的に働きかけることができる立場にあります。それが故に、場所的自己の意識的活動の中心点である我(現実主体)自らが、場(世界)との一致をもたらす能力を有していると万能感や誇大感をもってしまう危険性があります。こうした幻想的理想は、我(現実主体)には、すべてを変革する意思や能力があるという錯覚をもたらします。

我(現実主体)は、自己及び世界をあたかも自らが主体的に創造しているかのような万能感と誇大感に圧倒されやすい存在でもあるのです。ときどきそのような指導者が現れ、そうした指導者を英雄化する大衆が登場しまう歴史的悲劇には注意を払う必要があります。場所的自己を忘れてしまった我(現実主体)が、そのような錯覚に陥りやすいとホロニカル心理学では考えています。我(現実主体)は、場所的自己との対話を忘れてはならないのです。

場所的自己(自己)と場(世界)が共時的な現象として同期していることへの実感・自覚を得た自己には、同時共振的全一世界の瞬間・瞬間にも差異があることを直観しています。こうした瞬間・瞬間の間の不一致は、「時と時の間(ま)」の感覚をもたらします。瞬間・瞬間にまったく差異がない世界とは、すべてが変化なき死の世界です。しかし場所的自己には、瞬間・瞬間の差異によってもたらされる「間」の直観的感覚があります。こうした「間(ま)」の直観的感覚が生きているという感覚を場所的自己にもたらしていると考えられるのです。

場所的自己(自己)は、「間(ま)」において、共時的に同期する全一の世界がそのまま、時々刻々と変化しながら重々無尽のせめぎあっている世界でもあると直観しているわけです。

直観が究極的な実感・自覚にまで達していた人が、「覚醒した人」といわれいます。「覚醒した人」は、「瞬間・瞬間」の「創造不断の間」において、全一の世界が、重々無尽の世界となって自己組織化する世界でもあると実感・自覚していると考えられます。ホロニカル心理学で、自己意識の発達の第6段階に至った人のことです。

ホロニカル心理学では、絶対無(空)が絶対無(空)自身を自己否定するという“揺らぎ(絶対的矛盾)”が、場所的自己(自己)と場(世界)を同時共振的に創り出していると考えています。この絶対無(空)が、ホロニカル心理学が考える“こころ”です。

絶対無(空)自身が、瞬間・瞬間、一刻・一刻、絶対無の自発自展的自己展開として、無限のミクロの点から無限の球に至る多層多次元にして重々無尽の世界を創りだしていると考えているのです。“こころ”は、そうした現象をすべて映すフィールドといえます。

場所的自己は、こうした絶対的に矛盾する世界に対する実感・自覚を深化させながら自己意識を発達させていくとホロニカル心理学では考えています。

場所的自己と場がシンクロした瞬間は、場所的自己は場と無境界となり、無となります。すると、すべては時空間を超えた「永遠の今」となります。しかし忽然と場所的自己と場のシンクロ現象は破綻し、すべてがせめぎ合う重々無尽の世界になります。しかし、不一致と一致の非連続的連続を直接体験を通じて累積していく場所的自己は、全一体験としてのシンクロの瞬間の直接体験を自己照合の手がかりとして、場所的自己と場の一致を求めて適切な自己を自己組織化させていこういこうとするのです。人間の場合は、場所的自己のみならず場(世界)を一致に向けて変化させていこうとすらします。

場所的自己(自己)が場(世界)の一致の瞬間が破れ不一致になる瞬間、場所的自己は場を自らに包摂しようとし、場もまた場所的自己を場に包摂しようとして、両者はホロニカル関係を形成しようとするところにせめぎ合いが起きます。こうして不一致による苦悩と一致による覚醒が絶え間なく生成生滅を繰り返しているのが実在する世界といえるのです。

場所的自己(自己)と場(世界)が不一致・一致を繰り返しながら、刹那の瞬間において、非因果的な時空間を超えた共時性を帯びだしたとき、時の感覚は、「永遠の今」となります。そして、その後は、場と場所的自己の微かな不一致というズレの微かな感覚が、生命の時の感覚をもたらし、生命の時と、時計の時間との絶え間のない争いとなっているわけです。この絶対的矛盾に際して、場所的自己(自己)と場(世界)の一致を希求するとき、我(現実主体)の意思によらず、場所的自己と場(世界)の不一致・一致の差異の無常の流れの自然の意志の方向のすべての手がかりを求めることが大切といえます。我(現実主体)の意思も場所的自己(自己)と場(世界)の一致する方向の意志に従うことが大切と考えられます。それが我(現実主体)心的インフレーションを防ぐことにもなります。

場所的自己(自己)と場(世界)の一致によるホロニカル体験の瞬間は、誰もが実はいつでも実感しています。しかし自覚することがとても難しい体験です。ただ自覚がなくとも、適切な自己の自己組織化を促す場所と、その場所にホロニカル体験を場所的自己が実感することさえできれば、場所的自己の適切な自己の自己組織化は可能と思われます。

場所的自己(自己)と場(世界)の不一致は苦悩です。しかし誰にとってもまさにその苦悩が新たな自己の歴史的な生命の営みの契機とする可能性を秘めている考えられるのです。

※井筒俊彦(1986).創造不断;東洋的時間意識の元型.In:「井筒俊彦全集第9巻,2015.慶應義塾大学,pp106-185.