客観的世界(3):主体の否定の底に客観的世界を見出す

「仏教は自己そのものに徹底して、自己は無にして有なるものと考えた。 主体の底に主体を否定して、そこに客観的世界を見出したのである。 心即是仏仏即是心という考えは、かくして成立したものでなければならない。仏教哲学を唯心論的といつても、単に西洋哲学の範にあてはめて考えるのでは、未だその真相に徹したものではない。それは心理的に又は客観理性的に世界を唯心と考へるのではなからう。 要するに対象論理的に世界を唯心と考えたのではない。仏教哲学は、我々の意識我を越えてこれを包む世界、即ちこれにおいて我々の意識我が生滅する因果の世界を考えたのである。唯識論といへども、このごときものであらう。」とは西田幾多郎の「日本文化の問題」(西田幾多郎全集〈第9巻〉日本文化の問題、哲学論文集第4・哲学論文集第5)を現代文にした一説です。

西田の語っていることは、仏教は、観察主体が観察対象を観察していくときのような論理ではなく、観察主体となる私というの意識を忘れ、無となったときに、自己は無にして有なる客観的世界としてあると指摘していると考えられます。

この考え方からすれば、観察主体が観察対象としている世界は、厳密には、主観が客観的世界と思い込んでいる世界ということになります。ホロニカル心理学も真なる客観的世界とは、我という意識が無となっても自己を含む世界が客観的世界と考えており、通常、私たちの我という意識が観察対象としている世界は、私という主観的意識が再構成している世界と考えています。