絶対無と絶対有:存在論的論理構造について

絶対無とは窮極的な自性的実在のことです。

それ以上、他の何ものもなく、何にも依らずそれ自身があるところの窮極的な実在のことです。しかし、絶対に何もないといっても虚無ではなく、むしろ何もかも生み出す根源的なものという意味です。他の何ものにもよらないという意味で絶対であり、逆にいえば、すべてをそれ自身で生み出すものといえます。

実在するといっても、「万物が有る・無い」という時の相対的な有という意味ではありません。絶対無は、すべての相対的有・相対無を生み出す実在という意味です。

論理的には、絶対無が何かを生み出そうとして、絶対無自身を否定する時、絶対有となると考えられます。その絶対有が自らを否定する時、相対有と相対無が生まれます。相対有の代表例が物質であり、相対無はエネルギーや精神というような非物質的なものといえます。

絶対無を「0」とすると、絶対有は、「一(いち)」となり、万物は「多」といえます。そこで、次のような理がなりたちます。絶対有としての「一」は、「一」として揺るぎなくあるが、しかし絶対有の自己否定である万物の多との間には矛盾があり一致しない。しかし、矛盾がありながら、万物とはもともとが絶対有自身の自己限定であったことに立ち戻れば同一になる。即非の論理(鈴木大拙)がなりたつことになります。「Aは非Aにして、ゆえにAといわれる」「Aは非Aであり、それによってまさにAである」と言われものです。

多という視点からみれば、一と一から分別されて万物の間には不一致であり矛盾があります。矛盾があるからこそ、万物の間に様々な相対有と相対無が重々無尽に識別されるわけです。しかし、識別される以前は、まさに「一」です。したがって、一と多は、絶対的矛盾しながら同一にあることになります。華厳思想の一即多・多即一です。

絶対有は、相対有と相対無を包越する宇宙(世界)であり、宇宙(世界)は、相対有と相対無からなりたっているわけです。

絶対無というが万物を包摂しようとする時、すべてが無に帰して絶対無となります。このように、絶対無には、有と無が絶対に矛盾しながら同一にあるという存在論的論理構造があると考えられます。