自由意志とは(1):人間と自然界の視点から

AIで作成

多くの人は、物事を「」の意思によって自己決定していると思っています。しかし,本当にそうでしょうか?

歩くという行為ひとつとって振り返ってみても、実際には我の意思で常に意識的に決定しているわけではありません。交通量の激しい道路で歩く時、私たちは、歩道として定められた道を歩くしかありません。歩いているとき、どこかの家のドアが開いていても無断で入れば大騒ぎになります。そもそも散歩でもない限り、歩くという行為の範囲が用事の遂行のために縛られています。歩くという行為における自己決定は、様々な複雑な要因に制限された範囲での選択行為であることがわかります。

自由意志による自己決定とは、自己と状況(世界)の相互限定の中で時々刻々と決定される範囲での選択行為といえます。しかし、何を相互限定しあうことになるかは、確率論的にしか予見できず、偶然の出来事による影響を排除できません。 歩いている時、何に出会うかは、確率論的には予測できても、しかしあらかじめ完全には予測することはできないのです。こうした予測不可能な出来事の中での自己決定にこそ、自ずと自由意志が働くといえます。

荒海と接する断崖絶壁の途中からそびえ立つ見事な一本の松に、かつて、とても悩んだことがありました。どのような松の意思が働くから、ああも見事な自然美豊かな松になれるのかと・・・。あの松の一体どこに、見事なバランスを司る司令塔としての意思の主体があるのかと・・・。しかし、いくら松に樹木テストのように人間を投影してみたところで、松には、人間の大脳にあたるような中枢機能による意思決定の働きなどどこにもありそうにありません。では、一体、どのように自己決定をしているのだと・・。しかし、ある時、ふと、松には、中央司令塔などいらないと気づきました。絶壁に付着した種は、種が置かれた状況の中で、時々刻々と、もっとも適切な生き残り策を、その都度、その都度、状況の変化(季節・気候・土壌・・)に応じて松という自己が、ひたすら自己決定しながら自己組織化していくことさえできれば、自ずとあの見事な松になることを・・・。松には我の意識などなくとも松という自己が一瞬・一瞬変化する世界とのせめぎあいの中で、適切な自己という松を自己組織化することができると頓悟したのでした。松は、場において、他のすべての現象と密接に絡み合いながら、見事な自己を開花させているといえるのです。

人間も我の意思ではなく、自己と世界の出あい不一致・一致の出来事の制限の中で、自由意志を働かせているといえるのです。