
科学は、さまざまな現象を対象として、客観的な観察を通して、誰もが再現可能な一般法則を発見し、人類に寄与してきました。しかし、ひとりひとりの人が生まれ死んでいく、唯一かけがえのない主体的存在としての意味を明らかにすることには限界があります。
むしろ、宗教、哲学、芸術などが存在することの意味を深く求めてきた歴史があります。
心理学の現状は、一般性の探究を重視する立場と個別性の探究を重視する立場が錯綜し、しかも両者が対立しがちです。“こころ”の現象がいかなるものかをめぐって根本的な差異があり、いまだ統一的見解は心理学の世界では合意がないのが実態です。
特に心的現象に関して、一般性と個別性をいかに考えるかは、全く異なる学問になります。一般性を探究しようとする人は、心理学を客観性を重視した科学的学問領域の一分野と考えます。それに対して、個別性を探究する立場の人は、主観的な意味や価値を重視した科学的研究法以外の研究法(事例研究、物語的理解や了解的方法)を取り入れようとします。
しかし、“こころ”の現象に関していろいろな立場が錯綜しているとはいえ、実在する現象は一つという点に注目すれば、次のような仮説が成り立つのではないでしょうか。「“こころ”の現象には、一般性を帯びた側面と個別性を帯びた側面のいずれの面もある」というものです。
ある人のある“こころ”の現象に関して、類似する情報を客観的な量的データとして蓄積し分析していけば、そこにはある程度、一般性に向かっての再現性の確率の高い法則を見いだすことができます。ただし、どこまでが一般的であるかは歴史的文化的な制約を排除できません。
しかしながら、ある人のある現象に関して、その人の主観性の持つ個別的な意味や価値について歴史的社会文化的に探究していけば、そこにはその人がかけがえのない固有の存在として生きている意味や価値が浮かび上がってきます。ただし、個別性を記述する言語の持つ歴史的社会的制約を排除できません。
同じ一つの“こころ”の現象に、一般性と個別性のいずれも歴史的文化的な制限を受けながら見いだすことができるのです。
究極的には、ある現象を観察対象として言語で語ろうとする限り、言語の限界が思考の限界を意味します。オーストリア・ウィーンの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)が指摘するように、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」のです。
“こころ”とは、本来、思考や言語では語り尽くせぬものです。「語りえぬもの」「沈黙せねばならない」ものです。しかし、その働きは誰もが「感じとることができるもの」といえます。このように語ることができず、感じとるものを学問として語ろうとするところに、一般性と個別性のいずれについても語ることができるホロニカル心理学のような新しい心理学が成立すると考えられます。